ありえない忍者シリーズその2。
竹谷と孫兵の虫獣遁。
追っ手を撒きながらようよう逃げ込んだ廃寺は、山の湿気にやられて木が腐りかけた粗末な場所だった。竹谷を先頭に中に入れば、彼が用心して強く踏み叩いた床板が音もなく抜け落ちる有様。背中から後に続く孫兵が覗き込んだ。
「腐ってやがる」
「この湿気では仕方ないですね。先輩、階段で休みますか」
「それがいいな」
ふたりは頷くとお堂へ続く石造りの階段に腰を下ろした。少し離れた場所でふたりの様子を伺っていた金売り吉佐が、悲壮な表情で「これからどうするんです!?」と呟いた。追っ手の数は、ざっと100余名。いくらふたりが優秀な忍者のたまごだからといって、戦える数ではない。とにかく、村人全員が彼らの敵なのだ。女子どもとて油断は出来ない。この山も、村の管轄だろう。あちらのほうが地理から気候からすべて心得ているはずだ。
階段に腰を下ろして、雨にぐっしょりと濡れた装束の上着を脱いで絞りながら、
「逃げる」
と竹谷は呟いた。
「に、にに逃げる!?どうやって!ふもとはあいつらの村です、かといってこんな夜中に山を越えるなんて無茶だ。自棄になってるんじゃないでしょうね!」
「黙れ下郎!もとはといえばお前が招いた事態だろう。私たちを勝手に清水の屋敷に売りおって!お前なぞここで捨てて帰ってもいいのだぞ」
怒鳴りつけたのは孫兵だった。彼の首に巻かれた赤い鱗の毒蛇が、威嚇するようにこちらを見て大きな口を開ける。その鋭い牙を認めて、吉佐はううん、と唸ったきり押し黙った。
竹谷は欄干に絞った上着を干すと、手ぬぐいで身体を拭った。引き締まった筋肉を纏った上半身に、懐から取り出した塗り薬を全身に擦り付けていく。吉佐は、はてこの男は一体怪我をしたわけでもないのに何をするつもりなのかと訝しげに竹谷を見つめている。孫兵は心得た様子で竹谷から薬を受け取ると、彼の背中に塗りつけていった。
「山に追い詰めてくれたのは幸運だった」
「ええ、そうですね」
「ここは、生き物たちの宝庫だ」
金売り吉佐は、周囲にはたはたと羽虫たちが集まっているのを見た。蝶やら、蛾やら、大きいものから小さいものまで、それらは竹谷の周りに集うようにして飛び回っている。ひい、と吉佐が身を竦めると、竹谷は残りの塗り薬を彼に放って寄越した。
「それを塗れ。全身に塗っておけ。そいつらは、服の上からでも刺すからな。燐粉に触れただけでひとく爛れるものもあるぞ」
「こいつらはなんなんです」
「何って、虫さ」
さて、と竹谷が立ち上がった。ぴい、と指笛を鳴らすと、どこからともなく、大きな野犬やら鹿やらが木々の間から現れ出て、吉佐は今度こそ腰が抜けた。周囲を見渡せば、いつの間にやら色んな動物やら昆虫たちやらが竹谷のもとに集まり始めているのである。ぐるり、と獣たちに取り囲まれて、吉佐は泣きながら薬を塗りつける。ツンと鼻につく何かの植物の匂いが、ひどく目に染みる。これが虫の毒に効くのだろうか。使い切ってから、孫兵を見上げると、
「私はいい」
と落ち着いた声音で返された。吉佐を見る目が虫を見るようなものなのに、ひどく屈辱を覚える。
「なぜです」
「なぜ?・・・耐性があるからさ、可愛いこの子達の毒に」
孫兵が手を伸ばす。そこに、しゅるしゅると毒蛇が巻き付いて行く。毒蜘蛛が身体を這う。人にしては随分と白く体温の低い膚は、危険な虫たちをはべらせてなお、不思議に美しかった。
田村三木ヱ門は神崎左門が好きではない。遠慮なくいえば、嫌いである。理由は探せばいろいろあるだろうが、まず第一に、手間がかかる。すごく面倒くさい性格をしている。決断力のある方向音痴とはいったいなんなのだ。間違った解答をずばり導き出して実行に移したところで、それは決断力といわぬのではないか。それがお前の弱点だと何度指摘してやっても、「はあ」と気の抜けた返事をしていっこうに直そうとしない。それどころか、「決断力のよさは僕の長所ですよね」と三木ヱ門の指摘の三十秒後くらいに言ったりする。お前には耳がないのかと問いたい。耳があっても、言葉が脳まで届かなければそれは耳がないのと同じだぞと怒鳴りつけてやれば、また、分かったんだか分からなかったんだかわからないような表情で「ほう」と呟き、その三秒後に「お前には耳がないのかって、見れば分かりますよね」といってひとりであははは、と大声で笑う。終いに三木ヱ門はこいつにかかずらっているのが馬鹿らしくなってきて、「お前は馬鹿だ」と呆れたように刷き捨てる。すると左門はそこで初めてむっとして「先輩人を馬鹿といっちゃいけませんぜ」というので、三木ヱ門はいよいよこいつを殴ってやろうかと思う。夜更けである。実に四徹目の夜であった。一年生はささいな、じつにささいな理由でけんかをして、それがもとでとうとうふたりして潰れた。疲労がピークに達したのだ。「佐吉より俺のほうが背が高いやい!」「いいや、僕のほうが高いや!」というのがふたりの最後の言葉であった。委員長の潮江文次郎は、一年坊主と左門と三木ヱ門のやりとりを尻目に、ひとり驚異的なスピードで算盤を弾いていた。もともと、周りがどれだけ五月蝿かろうがまったく気にならない男である。4年のとき、野戦実習で、教師の講義の最中に近くの戦場から砲弾が飛んできた。さしもの教師もびっくりして口を噤んだ。それから、驚く生徒たちと突然の出来事について語り合っていたら、この男は真剣な瞳で手を上げて、「先生、そんなことより続きを」と講義の続きを促したのだという。そんな伝説が残っている。流れ弾をそんなことといってしまうこの男は、しかし、一年が潰れたことを誰より早く見つけ、顔を上げた。
「四日目か。新記録だな。今年の一年はなかなか根性がある」
頷いて、立ち上がる。潮江は簡単に誰かを褒めたりはしない男だ。一年生が次の日すまなそうな表情を下げて委員会に来たときには、きっと「バカタレ、たるんどる、根性が足りん!」とむちゃくちゃをいって怒鳴るのだろう。潮江は誰も聞いていないときだけ褒める。彼は立ち上がると一年生ふたりの背後に回り、両肩に担いだ。
「こいつらを長屋に持っていく」
「はい」
「まったく、こいつらといいお前らといい、仲がよくて結構なことだな」
とぼやいていったので、三木ヱ門はその意味をとりかねて珍妙な表情を浮かべた。左門は潮江が行ってしまうと、「けんかするほど仲がいいって言いますけど、あれってどうしてですか」とふいに三木ヱ門に尋ねた。彼は説明するのが面倒くさく、「辞書を引け」と一言返すと、左門は、「そりゃそうだ。いいアドバイスだ」と頷く。三木ヱ門はひどく疲れた気分になった。溜息をひとつ吐いて帳簿に視線を落とすと、左門がふいに、
「そういやなんで赤ん坊が出来るか知ってますか」
というので、彼は思わずぼとりと筆の隅を帳簿に落としてしまった。「ああああ!」とすごい声を上げて悔しがれば、「あーあー、気をつけなきゃ」としたり顔で言うのがまた憎らしい。誰の所為だといってやりたい。だがどうせそれも彼には届かないのだろう。三木ヱ門はこめかみをもみしだきながら、ああ、ああ、こうなったら一刻も早く寝たいもんだ、と思う。顔を上げれば、左門はまじまじとこちらを見ている。
三木ヱ門は呆れた調子で、「四年になれば授業でやる」と答えてやった。だが左門は、「それまで待てない」という。
「待て」
「嫌だ!」
「逸るな、三年坊主」
「あんたは興味とかなかったんですか?」
「性交に?」
三木ヱ門は遠まわしな表現は苦手だからずばりとその単語を出した。左門はしっかりと頷く。三木ヱ門はしばらく逡巡した後に、「なかった」と言った。
「嘘だあ!」
「嘘じゃない」
「でも俺、色の話をするのは好きだ。別に女に興味はないけど、なんとなく大人になった気分がする」
「私はまったく興味がなかったな。どうしたら赤ん坊ができるかなんて、そんなこと考えもしなかった。四年になって房中術の第一回目の講義が始まったとき、教師からまったく同じ質問をされて、こうのとりが運んでくるといったら教室中でわっと笑いが起こった」
「あちゃ~・・・」
左門が痛々しい、という表情を浮かべる。三木ヱ門は苦笑いをする。
「大人になったような気分というのは分からんでもない。だが、あせらずとも勝手に大人になる。知るべきときに知れ。そのほうがいいこともある」
「性交はどうして大きくならないと話しちゃいけないんだろうなあ」
左門がぱちんぱちんと珠を弾きながらしみじみと呟く。三木ヱ門はさあな、と首を振った。左門は最後にひとつだけ、といい置いて、質問した。四年生の房術実習がすでに終わっていることは、左門も知っている。
「性交って、やっぱりイイもんですか?」
三木ヱ門は頬を真っ赤に上気させた。それから、来年自分で確かめてみろ、馬鹿、とようやくそれだけ言った。左門は目の前の上級生をまじまじ見つめて、
「あ、今俺、目の前の先輩を可愛いと思った。ひとつ大人になった証拠かな」
と頷いたので、三木ヱ門は今度こそ本当に腹を立てて、後はもう左門が何を言おうが石のように黙りこくった。
さて、翌日の体育委員会のことであった。裏山を登ったり降りたり登ったり降りたりして、夕刻。ようようの態で学園にたどり着いた委員たちは、倒れこむように校門の傍にへたり込んだ。委員長の小平太だけが、足りないから校庭走ってくる、と言い置いて駆け出していってしまう。その背中を見送りながら、三之助は「化けもんか、あのひと」と心のうちだけで呟く。それを口に出す愚行を犯さないのは、滝夜叉丸が小平太への礼儀に対してとてもうるさいからだった。滝夜叉丸は三之助と己を縛っていた迷子紐を解くと、金吾の手を握りながら、「では、歩くぞ」と歩き始める。プライドが高く自慢の多い鼻持ちならない人だと云われているが、実力は本物で、あれだけたっぷり運動した後でも、滝夜叉丸の息切れはすでに収まり始めている。激しい運動をした後は、すぐに身体を休めると返ってよくない。学園のないをゆっくり散歩してから解散するように、というのは小平太の指示だ。金吾は、一年生のなかでは体力のあるほうだけれども、激しすぎる運動量にぜえぜえと激しく咳き込んだ後の病人のような様子で、滝夜叉丸に手を引かれて歩き始める。三之助は昨日の顛末を滝夜叉丸に相談するかどうかを悩んでいた。ぼんやりしていたら、滝夜叉丸が振り返って、三之助に左手を差し伸べた。
「どうした三之助、ほら」
三之助は駆け寄ると、その手を握った。三之助自身はそうは思わないのだが、他人に言わせるとどうも彼は極度の方向音痴らしい。ひとりで歩かせるとすぐ逸れるからといって、滝夜叉丸は、運動の最中は迷子紐を互いに結びつけ、運動の後の散歩は手を握る。三年生になって間もない頃に、三之助は、急に人に手を引かれて歩く自分が恥ずかしくなって、滝夜叉丸の手を拒んだことがあった。滝夜叉丸自身は、「まあ、そういう年頃かも知れんな」と頷き、しかし、「迷子紐はなるべく使いたくないのだが」と断った。三之助は手を握って仲良しこよしで歩くよりは迷子紐のほうがずっといいと主張した。滝夜叉丸は「そうか」と頷いてくれるものの、「迷子紐は、なにやら動物にしているようで私は好かんのだ」とどうしても譲ってくれない。嫌だ嫌だ、手をつなぐのは恥ずかしいと駄々をこねていたら、小平太が「滝を困らせるな!」と一喝した。小平太は実のところあまり委員に対して怒りを露にすることはない。怒ったり褒めたり、説教したり、細かい面倒はみんな滝夜叉丸に任せている。だから、三之助が小平太に怒鳴りつけられたのはあとにもさきにもこのときだけだ。小平太は一喝すると、後は静かに、「三之助、」と呼びかけた。
「手を繋ぐのがなぜ恥ずかしい」
「子どものようだから、からかわれるかもしれない。それが嫌だ」
「三之助、それこそ子どもというものだ。大人はな、理にかなった行動ならば他人の評価など気にせず行うものだぞ。形だけを見て、理を考えずにあれこれ物をいうのは実に愚かな所作だ。滝者者丸はお前の能力を低く評価して子ども扱いをして手を引いているのではない。お前が道を把握することが苦手なぶん、導いてくれているのではないか。それは恥じることではないだろう」
諭されるように云われれば、三之助もなるほどそうかと頷かざるを得ない。それから三之助は、今日まで毎日滝夜叉丸の手を握って一緒に歩いている。遠く日が沈んで、あたりが橙に染まっている。
滝夜叉丸は、深く息を吸い込んで、「秋だな。金吾、今日は栗ご飯かもしれないぞ。食堂のほうからかすかに匂いがする」と一年生を励ます。金吾はほっぺたを真っ赤に上気させて、嬉しそうに微笑む。三之助は、この時間が、好きだ。滝夜叉丸の手を繋いだまま、「先輩、」と声を発した。
いろいろ迷ったが、やっぱり聞こうと思った。数馬は下世話な話だと嫌な顔をしたけれど、でも、大切なことだろうし、この人たちなら変にごまかすようなことはしないでいてくれるだろうと思った。
「赤ん坊って、どうやってできるんですか」
滝夜叉丸の歩みが止まった。ぎょっとした表情で三之助を見つめる。金吾があどけない瞳できょとんと三之助を見上げる。
「次屋先輩、赤ちゃんをお産みになられるんですか。でも、赤ちゃんておんなのひとしか産めないんじゃないんですか。違うのかな」
こほん、と滝夜叉丸が咳払いする。
「金吾、その通りだ。赤子は女性しか授からない」
「じゃあどうしてせんぱ」
「三之助、なぜ急にそのようなことを」
「えーっと、かくかくしかじかで春画本を見つけまして、ほにゃららのすえ、赤ん坊はどうやって出来てどこから出てくるのかという疑問が出来まして。先輩、どうやったら、赤ん坊が出来るんですか。俺でも作れますか?」
「三之助、その疑問を、あの方には決して問うでないぞ」
あの方、とは七松小平太のことであろう。
「どうしてですか」
「下品な話題だからだ。あの方のお耳を汚すことになる」
「でも俺どうしても知りたいんですけど」
「三之助、夜半になったら私の部屋に来い」
「はい」
金吾が首を傾げる。「ぼくも知りたいです。いっしょにいっていいですか?」
「ならん」
滝夜叉丸はびしりと言うと、そのまま深い溜息をついてまた歩き始める。
「まったく、子育てとはかくも大変なものであるのだな」
母となる女性は偉大といわざるを得ない。滝夜叉丸は疲れた気持ちでしみじみとそう思った。
さて、一方で浦風藤内である。彼が作法室で手慰みに生首の髪を梳いていると、綾部がふたりがけの文机の隣に肘を突いて、大きな欠伸をひとつ零した。それから藤内のほうを向いて、「ねえ君どうしたの」といった。
「え、なんですか」
「元気がなさそうに見えなくもないね」
「別に、なんでもないです」
「そう」
「はい」
障子窓の向こうでは鴉がカアカアと鳴いている。委員長の立花仙蔵は途中で教師に呼ばれ退出してしまって帰ってこない。指示が来ないから、作業が終わってしまって手持ち無沙汰で待ちぼうけの状態なのだった。一年生ふたりは、綾部が勝手に帰してしまった。綾部喜八郎は変わった男で、不思議な調子がある。藤内は少し苦手を感じていた。沈黙が降りる。その沈黙を、藤内は不自然な居心地の悪いものとして捉えたが、黙ってまたフィギュアの髪を梳いた。
おもむろに、綾部が口を開いた。
「私、今すごく先輩ごっこをしたいんだけど、付き合ってくれないかな」
「はあ」
「何があったの」
「・・・」
見詰め合うことしばし。藤内は観念したように溜息をつくと、実は、と昨日の一連の出来事を話した。綾部は黙って聞いていたが、藤内の疑問を聞くと、ふ、と美しい顔に笑みを刷いた。
「実に楽しい悩みだ」
「結構切実なんですけど」
「男女のまぐわいがどんなものかしりたいか・・・そうさね、さしずめ穴掘りだな。男女の性交は穴掘りに似ている」
また穴か、と藤内は思った。この男は穴ばかりだ。もういいです、と怒ったように呟くと、綾部は、詳しいことを教えてあげるから今夜部屋においでと言った。藤内はいいです、と首を横に振る。綾部は眠たげな目つきで、藤内を見つめつつ、
「かわいいねえ、」
と笑った。
「お茶菓子を用意して待ってるよ」
「行きませんってば」
「先輩ごっこはまだ続いてるよ~ん」
「先輩ごっこっていうか貴方は最初から先輩でしょ」
「やあだ、勝手に決めないでよ」
「最初から決まってるんですっ!」
「こないだ町でおっぱいプリン買ってきたから、ふたりでそれ食べよー」
藤内は泣きそうな表情を浮かべる。やっぱりこのひと苦手だ。すごく苦手だ。心のうちで呟いたら、綾部は振り返って、まさか心の声が聞こえたわけではあるまいが、にっこり笑って言った。
「ところがどっこいかわいそうなことに、私は結構君のことを気に入っちゃってるわけだ」