わたくしは後悔なぞしておりませんから、そのことでどうかあなたが苦しみませんように。
すがやは自分の最期を予測していたのか、幸丸に一筆を残していた。いざ遺品を整理しようと持ち物を探るとわずかばかりの化粧道具と質素な着物の何枚か、そんなものが大事そうに櫃にしまわれているだけだった。そのなかに錦糸で小花の縫い止められている小さな巾着袋があり、それは昔すがやのために幸丸が町で求めてきたものだった。そのなかには、それまで幸丸がすがやにあげてきたいろいろなものが入っていた。それは綺麗な飾り紐であったりよい匂いのする香り袋であったり桃の木でつくられた櫛だったりした。すがやは幸丸に髪を結わせるのが好きで、幸丸は、すがやに贅沢のさせられないことをたびたび詫びたが、そのたびに彼女は幸丸に髪結いを強請って、「あなたがわたしの髪を美しく結い上げてくれるかぎりは、わたしはほかに、なにも要らないわ」と微笑んで言った。幸丸は、その巾着をすべてタカ丸にやった。タカ丸は美しい綾紐に頬を上気させて、「うれしい」と微笑んだ。その様子がひどくすがやに似ていて、幸丸は目が眩んだような心地がした。
タカ丸はすがやによく似ていた。
不思議なことに、成長して男としての特徴が顕著になればなるほど、すがやの持っていた雰囲気を色濃く纏うようになるのだった。そのことを気も狂わんばかりに恐れたのは、タカ丸の母親だった。彼女はタカ丸が成長してすがやの面影と重なり始めているのを認めると、ひどく絶望し、狼狽した。もともと丈夫でなかった彼女は、ついに死の床についた。彼女は床のなかで、繰り返し繰り返し、タカ丸をどこにもやらないで頂戴と幸隆に頼んだ。あなた、タカ丸を連れて行かないで頂戴、どうかあなたと同じものにはさせないで頂戴。それから、青白いほっそりした手で強くタカ丸を抱き寄せては、タカ丸、私の可愛いこ、あなたは夜の暗さなんて知らなくていいからね、月の光に怯えなくてもいいからね、闇の冷たさになれなくてもいいからね・・・。タカ丸、どうか、あなたはなにも知らずに明るい道だけを歩んで頂戴ね。
幸隆は、タカ丸の母親を哀しませぬために忍びの道を捨てた。タカ丸が成長したら忍術学園に入れる手はずだったが、それもしないと決めた。タカ丸には何一つ知らせないつもりだった。幸丸は、時がたてばタカ丸を城に帰そうとしていたようだった。それが、城からすがやを奪ったせめてもの罪滅ぼしのつもりだったのだろう。だが、幸隆はそれらの約束をすべて反故にすると決めた。城を敵に回して、抜け人として命を狙われても、タカ丸だけは手放さぬと決めたのだった。
「あ、そうか」
ふいに小平太が呟いた。紫陽花寺を目指して長次と駆けている最中だった。長次が、視線だけで後の続く小平太を振り返った。
「あの巻物のお姫さん、どっかで見たことあると思った。×××城のすがやっていうお姫さんだ。」
ねむいので続きは後日。
「・・・長、歌を手に入れたぞ。これが暗号を解く鍵だろう、」
黒装束に身を包んだ年かさの男が、燃え尽きた廃寺の奥、小さな土蔵に胡坐をかいて座っている老人と対峙している。その老人は随分と小さな体を漆喰の壁にもたれかけさせていた。ひどく衰弱しているのだろう、息は荒く、ひゅうひゅうと咽喉から秋風のような息が漏れている。まもなく事切れるのだと、誰も疑いようのない姿だった。瀕死の老人は細い目をして、「間違いないか」としわがれた声で問うた。
「ああ、間違いない。すがや様の孫から直接聞いた」
「孫!ああ・・・孫、それは男か女か」
「男だ。すがや様によく似ている」
「ああ・・・」
老人は長く息を吐くと、歌を、と言った。男はタカ丸から聞き出した和歌を諳んじる。
こいしくばたずねきてみよ いずみなるしのだのもりのうらみくずのは
「・・・うん、なるほど」
老人が頷く。なるほど、なるほど、と何度も頷いて、それから、「大川平次渦正が忍術を学ばせる学校を開いたとか。そこに、すがや様の孫はおるのか」とおもむろに尋ねた。対峙する男は、調査の末それを突き止めていたから、ああ、と頷いた。年かさの男には和歌に隠された意味は読み解けない。そんなことまで書いてあるのかと、少し驚いた様子で眉を上げる。老人は、小さくふっ、ふっ、と短い息を吐いた。それが笑っているのだと、男はしばらく気づけなかった。気づいたのは、老人がそのまま長く息を吐いて万感の篭った様子で、「我が悲願はようやく成る」としみじみ呟いたからだった。
タカ丸はずいぶんと幼かったが、祖母の死を覚えていた。一度見たら到底忘れられぬ、美しく、あまりに禍々しい死に様だった。まだ踏み固められてしまう前の、さらさらと柔らかい雪の上に、たおやかな妙齢の女が身体を丸めて倒れこんでいた。流れる血が、あたりの純白を真っ赤に染め上げていた。女を中心にあたり一面真っ赤に染め上げられたその姿は、まるで椿のようだった。女の身体には無数の矢が突き刺さっていた。タカ丸を抱いた母が甲高い声を上げて絶叫した。父親が、見てはいけないよ、と鋭く言い置いて戸を閉めてしまった。タカ丸は、あの綺麗で優しい祖母がどうしてあんなふうな目に遭わなければならなかったのか、今見たものが理解できず、母親に問い質したかったが、彼女は突っ伏して泣き喚くばかりだった。タカ丸は母親の腕から抜け出すと、立ち上がって、窓の傍に立った。少し爪先立てば、外の様子は見えた。父と祖父が、傘も差さず絶命した祖母を見下ろしていた。祖父がしゃがみ込んで、ゆっくりと祖母を抱き起こした。魂を失ってぐったりした様子の身体は、重たく祖父の腕に圧し掛かっている。タカ丸は「あ、」と小さく息を漏らした。途端に、涙が出た。タカ丸の小さな悲鳴に気がついて、母親が気が狂ったような激しい様子で、タカ丸を窓辺から攫った。何も見せぬよう深く胸元に抱きしめながら、「なりません!」と叱り付けた。「見てはなりません!」その身体はひどく震え、熱かった。タカ丸を抱く母の腕の強さは、彼を抱き潰してしまわんばかりに強く、タカ丸は「かあさま、苦しい」とか細い声で抗議した。母は我を忘れたようにタカ丸を抱きしめながら、何度も、「お前はどこにも行かないで頂戴ね。どこにも言っては駄目。勝手に表に出てはなりませんよ。あいつらに見つかったら、お前はきっと、遠くに攫われてしまうからね、」と繰り返した。母の言う”あいつら”が誰のことなのかタカ丸には分からなかったが、おそらく、祖母を殺してしまった人たちと同じなのだろうと理解した。
翌日から、母の意向で、タカ丸は表に出してもらえなくなった。祖父や父や母が遊んでくれたので、軟禁されていてもそれほど辛くはなかったが、同い年の友達がいないのはどうにも寂しかった。その頃に扇子の配達の手伝いで家に訪ねてきた小松田屋の兄弟が、彼の唯一の友達だった。
ある日、タカ丸は祖父から一枚の掛け軸を貰った。それは、美しいお姫様がこちらを向いて座っているもので、着物も紅もみんな真っ赤に装ったそのお姫様を、タカ丸はとても綺麗だと思って一目で気に入った。
「ほんとにもらってもいいの、じいちゃん!」
「ああ、いいよ。綺麗なお姫様だろう」
「うん。真っ赤でとてもきれいだ。ねえ、じいちゃん、この人はじいちゃんの知っている人なの?」
「ああ、そうだ、とてもよく知っている人だよ。そうだ、タカ丸、お前にひとつ歌を教えてやろうな」
「歌?」
「お前だけに教える歌だよ。いいかい、誰にも言ってはいけないよ。大人になるまで覚えていてごらん、きっとお前にいいことがあるから」
28.仙蔵の我侭、あるいは綾部の誓い
仙蔵が、綾部と仕事を代わりたいと言いだしたのは、文次郎が草鞋を履いている時だった。
背後に仙蔵が立つ気配がして、「何だ」と振り向きもせず声をかけたら、そんな我侭を吐いた。文次郎は言下に「駄目だ」と答えた。
「駄目か」
「決まっている。急な作戦変更は統率を乱すもとだ。だいたい、仙蔵、お前の役目は何だ」
「斉藤さんの護衛」
「それがあの四年に務まるか」
「喜八郎は筋がいい」
「仙蔵、これは実習ではない」
文次郎は草鞋を履き終えると立ち上がった。もともと年のわりにいかにも男くさい顔立ちをしていた、それが、やれ誰よりも忍者らしい忍者になるのだとかなんとか仙蔵から言わせれば戯言を吐いていつも切羽詰ったような表情をしているから、そのうちに年齢以上の貫禄を持つようになってしまった。仙蔵は級友を、目を細めて見遣る。
「知っている。だからこうして頼んでいるのではないか。私がお前に頼むなど、実に何年ぶりのことだろうな」
「馬鹿な。背後にたって腕を組んでふんぞり返って、なにが”頼んでいる”だ」
文次郎は鼻を鳴らす。彼は頑固な男だ。だが、それ以上に眼前に立つ立花仙蔵も同じくらい頑固な男だ。
「綾部喜八郎が貴様にそう頼んだか」
「いいや、あの子はいい子でね、そういうことは決して言わないよ。部屋で苦無の手入れをしている」
「綾部のためか、それとも斉藤のためか」
仙蔵はふっ、と小さく声を漏らして笑った。「どちらでもないさ、私のためだ。最近疲労がたまっていてな、楽な仕事がしたくなった。だから大変なほうを綾部にまわすのさ」
「さぼるな、馬鹿」
「私らしいだろう?」
仙蔵が肩をすくめると、ちょうど綾部がその脇を通り過ぎた。
「出ます」
とぼそりと呟いていってしまおうとするのを、仙蔵が止めた。
「ああ、待て。役目交代だ」
「は?」
綾部が訝しげに眉を潜め、仙蔵を見上げた。作戦が始まってから役目交代など、滅多にあってはならぬことだ。それを言い出したのが自他に厳しい仙蔵であったから、綾部は奇妙な心持がしたのだった。
「誰とです」
「私だ。綾部、お前は二階へ上がれ」
彼らは市井のひとつにある茶屋を仮のアジトに決めていた。仙蔵は玄関からすぐに待ち構えている階段の下に立って、顎で二階を示した。綾部が釣られて上を見上げる。
「先輩のお役目は、善法寺先輩のお手伝いでしたか」
「そうだ。いずれはここを発つことになるがもう少し後になる。詳しい説明は伊作から聞けばいい。難しいし重要な役目だ、覚悟しろ」
「そのような仕事を何故私に」
綾部は不思議に思って納得せぬふうである。仙蔵が困ったように笑うと、横で文次郎が生真面目に口を挟んだ。
「仙蔵は俺と組みたくないのだと」
「ははあ、」
綾部はわかったようなわからぬようなぼんやりした表情で頷く。だが断るような理由も無いので、言われるままに二階へ上がった。仙蔵がもう一度背後で「kれぐれも抜かるなよ」と念を押すのが聞こえた。
綾部の背中が見えなくなると、仙蔵が、文次郎を振り返った。
「さて、では、私も行こうか」
「お前は優しすぎる。あまり後輩に情をかけないことだな。普段似合わん毒舌など吐いて、厳しい上級生を気取っているから、こういうときに可笑しく見える」
「言うな、文次郎。己の弱点だ、自分でよくわかっている」
仙蔵は少し眉を下げて嫣然と微笑む。普段、きつめの美貌をしているだけに、そのような笑うと、ひどく頼りない柔らかい感じが出て、文次郎は見慣れぬものを見たとばかり戸惑ったように視線をそらせた。
綾部が二階に上がり伊作の名を呼ぶと、彼は部屋から出てきて、「やあ、手伝ってくれるんだってね」と微笑んだ。どうやら仙蔵から話は聞かされているらしい。
「私は何をお手伝いしたらいいんですか」
「うん、今ようやく薬を飲んで少し落ち着いているところなんだ。そのうち高熱が出てくると思うから、そうしたら看病してやって欲しい。・・・まだ少し働いてもらわなくてはいけないんだ。熱のなか動かせてしまって、本当にかわいそうだとは思うけれどもね。そのときは護衛をしてやってくれないか」
「誰のことですって?」
綾部は眉を潜めた。話が見えない。病人の世話をしろ、というが、綾部には誰のことか検討もつかない。尋ねると、伊作は黙って微笑んで、自分が出てきた部屋に綾部を通した。綾部は部屋を覗き込んで、息が止まるかと思うほど驚いた。
火鉢のそばで布団に寝かされているのは、タカ丸だった。
「なっ・・・」
驚愕に言葉を発せないでいる綾部に、伊作は耳打ちする。
「そういうことだ。本当は、間一髪、一命は取り留めたんだよ。刺されたのも河に落ちたのも本当で、ひどく弱っているがね。精神的にも参ってるようだ、看病を頼むよ」
綾部の瞳がうっすらと潤っている。伊作は少し笑うと、「買い物に言ってくる」と出て行ってしまった。
綾部はもつれ込むように部屋に入ると、タカ丸の枕元に膝をついた。
「タカ丸さん、」
震える声で呼びかけると、タカ丸は瞼を重たげに持ち上げて綾部を見上げた。薬が効いてきて、ひどく意識がうっすらしている。身体が泥のように重たかった。
「綾部」
「ご無事だったんですね」
「うん、迷惑をかけてしまって」
綾部の手のひらがタカ丸のそれを包み込むように握る。タカ丸はうつらうつらと浮かされたような意識のなか、綾部が泣いているのかと思った。そのくらい、彼の様子が途方にくれた迷子の子どものように頼りなげに見えたのだった。それで、重たい手を持ちあげて、綾部の頬に触れた。
「大丈夫、何か辛いことがあったんだね」
「・・・ええ、ええ、とても」
綾部は深く俯いてしまって、タカ丸からは顔が見えない。ただ、声がひどく震えている、と思った。綾部が、黙ってタカ丸の手をぎゅうと痛いくらいに強く握った。そのうえに、熱い滴がぽたりぽたりと落ちてふたりぶんの手のひらを濡らした。泣いているのだ、とタカ丸は気がついた。
「綾部、大丈夫だよ、俺がいるよ」
タカ丸はかつて自分が貰って安心した言葉を、そのまま綾部に吐いた。その言葉をくれた人物は、優作であり、兵助であり、綾部だった。ああ、優しさやぬくもりというものは、めぐるのだなあ。タカ丸はそれがおかしくて少し微笑んだ。綾部は震える声で、きっとですね、と呟いた。
「きっとですね。もうどこへも行きませんね。ずっと私のそばにいてくれますね」
「うん、どこへも行かないよ」
「約束ですよ。もし破って勝手にどこかへいってしまったら、私は必ず貴方を追いかけますからね。追いかけてどこまでも行きますからね」
タカ丸は頷く。頷いて、それからひどく疲れたと思い、瞼を開けていられなくなって、息を吐いてそれを閉じた。右手がやけに熱い。綾部が握っていてくれるからだ。タカ丸はそのことをとても安堵した。誰かと熱を分け与える行為は、どうしてこんなにも安心できるものだろう。疲れた心をそっと休ませてくれるようだった。
「綾部、俺ね、死んでしまってもいいと思ったんだ。あんまり弱くて、子どもの頃から守ってもらうばっかりで、今回こんなふうになってしまって、いろんな人に辛い思いをいっぱいさせて、死んで決着をつけることが俺にできる最良で精一杯の策だと思った。それが、こんなふうに助かってしまってね、みっともない、どうしようもない、自分の無力さを恨んだよ。でも、ねえ、伊作先輩に怒られてしまった。弱くてもいいから生きなければいけないというんだ」
「タカ丸さん、貴方は弱くない」
綾部の脳裏には、いつかの大川の言葉が浮かんでいる。力が欲しいか。なんのために。何のための力が欲しいか、喜八郎。
「貴方はとても強い心を持っている。それだけで、決着をつけるには十分です。タカ丸さん、私の力を貴方にあげます。私は貴方のために力を使おう、貴方を守るために強くなろう。貴方が弱いから守るのではない、貴方の心が私を生かしてくれるから、私は貴方を守りたい」
「綾部、・・・冷たい水の中で、遠のく意識で、いつかに君がくれた言葉を思い出してた。”私がいます”って、・・・死の間際でも不思議と怖く無かったよ。ありがとう」
「私には貴方が必要です。そして、貴方にも私を必要として欲しい」
私の全部を貴方にあげよう。綾部は祈るような気持ちで思う。タカ丸が自分のものにならなくても、そんなことはもう、どうでもよかった。関係のないことだ。タカ丸の愛情がどこへ向けられようとも、綾部は総てを捧げてこの愛しい、救いのような存在を守るだけだった。
タカ丸が瞳を開いた。両の瞳に綾部が映っていることを、綾部は嬉しいと思う。じっと見つめ返したら、タカ丸がうっとりと微笑んだ。
「綾部、俺は強くなりたいよ。だからそれまで、力を貸してくれるかな」
綾部は微笑んだ。この男が物心ついてから、初めて見せた、とても美しい笑みだった。綾部はタカ丸の手のひらを取りあげて、そっと唇を寄せた。
「誓いましょう、きっと私は貴方を守る。私を使ってくださいタカ丸さん」