早朝の新聞配達のアルバイトを終えたきり丸は、学園の寮門を静かに出てくる喜三太を見つけて「おい」と声をあげた。
「どうしたんだよ、喜三太。いやに早起きじゃねえか」
あたりはようやく日が昇りはじめた頃合いで、薄く朝もやがかかっている。朝陽があたりの雲を金色に染めあげて、藍色の空を少しずつ洗ってうす桃色、乳白色から浅葱へと染め直していく。喜三太は陽光を浴びてきらきらと輝きながら、そこに立っていた。ワンピースにパーカーをはおっただけのラフな格好をして、背中には荷物の少ないリュックサックが、ぺしゃんこのまま引っかかっていた。
「どっか行くのか」
きり丸はいぶかしげにたずねた。喜三太は困ったような顔をして黙っていたが、やがて小声で「・・・実家」と答えた。
「里帰りするのか。平日にか」
「うん。ちょっと、いろいろあって」
「ふうん」
きり丸は勘は鋭いが、人に深入りしない優しさを持っている。それは、例えば団蔵とは違う優しさで、団蔵は人の懐に潜り込んでどこまでもその人を深く知って飲み込もうとする。けれどきり丸は、誰もが抱えているはずの誰にも踏み入れられたくない心の場所を、気付いても気付かぬふりしてそっとしておいてくれる。きり丸は少しつきあっただけの人には、冷たい男だといわれる。きり丸本人も、そう言う。だけどは組のメンバーは、きり丸のそういう優しさをちゃんとわかっていた。世の中には色んな優しさがあっていい。
「誰にもいわないでね」
喜三太は、きり丸を見上げて言った。思いつめた表情だった。きり丸は、興味のなさそうな表情のままで、
首を傾げた。
「誰にも言わないでっていうのは、お前が早朝から実家に帰ろうとしていることを、っていうことか」
「うん」
「俺が黙っててもすぐばれるぜ。学校があるんだもの。お前が欠席してたら、みんな心配して、喜三太はどうしたんだって話になるだろ。土井先生は、お前が実家帰ること知ってんの」
「うん」
「じゃあ、俺が黙ってる意味、あるか?」
「あるよ」
「よくわかんねえ」
「そのうち、わかるから。わかっても、黙ってて。心配いらないから」
喜三太は妙に緊張した面持ちをしてきり丸と向かいあっている。寮門のうちで、へむへむの笑い声が聞こえた。
「いけない、みんな起きてきちゃう」
喜三太は慌てて駆けだそうとした。まるで、逃げるみたいだった。きり丸は、自分よりずっと背が低い喜三太の腕をぐっと掴んだ。喜三太は、それ以上進めなくなって、止まる。困ったようにきり丸を振り返った。
「離して」
泣いているみたいな声で訴えた。きり丸はため息を吐いて、
「大丈夫なんだよな」
と強い口調で念を押した。喜三太は黙ってうなずく。涼やかな美貌のきり丸が、少し逡巡したあと、顔を歪めてばりばりと頭を掻いた。
「俺はお前の友達だけど、は組の一員でもあるし、俺らの心配が限界越えたらお前との約束は破るぜ。それでもいいな」
喜三太はじっときり丸を見つめて、それからはっきりと一度うなずいた。
「うん、それでいいよ。ありがとう」
「怪我とか、病気とか、自分がつらくなるようなことはすんなよ。お前がつらいめに遭うと、いやな思いをするやつがいっぱいいるんだから」
「うん」
喜三太はまたうなずいて、それから、ワンピースのポケットを探ってひと掴みぶんの飴玉をとりだした。
「あげる。口止め料だよ」
「やっすい口止め。こりゃべらべら喋るしかねえな」
きり丸は笑って、包み紙をといて小さな飴玉を口の中に放り入れた。それから、「お前、金もってんの」とたずねた。喜三太は、「二千円くらい。ねえ、それで新幹線とかってのれると思う」と子どもみたいなことを聞く。きり丸は今度こそ呆れて、「無理だろ」とあっさり答えた。それからパーカーのポケットから給料袋を取り出すと、三万円を喜三太に手渡した。
「なるべく早く返せよな。それ、乱太郎の誕プレ資金なんだから」
喜三太は驚いて顔をあげた。きり丸から貸してもらうにはあんまり意外すぎるものだった。返そうと思ったが、そのときはもう背中を向けて、背中越しに手を振っていた。
「じゃーな、喜三太。早く帰ってこいよ」
故郷の人から電話だというので受け取ってみたら、与四郎からだった。与四郎が時々心配してかけてくれる電話は、喜三太にとって毎回とても嬉しいものだが、今回ばかりは弾んだ声が出せなかった。喜三太は、故郷のリリイばあちゃんがすでに与四郎になんらかの話をしたのだと思って、電話の内容をあやしがった。
喜三太は、リリイから、「16になったらお前は錫高野のせがれと結婚するのだ」と言い聞かされてきた。錫高野与四郎は喜三太より年上の青年だが、昔から喜三太に優しかった。喜三太にとって神奈川の小学校時代は、必ずしもいい思い出とはいえない。かわりものの喜三太は、同い年の女の子からは避けられることが多かったし、男の子からはひどい言葉でからかわれた。その時分、与四郎はすでに中学生だったが、部活があっても試験があっても喜三太が泣いて彼のもとを訪ねると、なんでもほっぽって喜三太の話を聞いてくれた。小学校でいじめられているのだという話をしても、与四郎は黙って最後まで話を聞いてくれたあと、
「俺はなにがあってもおめえの味方だ」
と言って、それから涙がとまるまでいっしょに遊んでくれた。
与四郎はことあるごとに言った。
「喜三太、生きてる限りつれえことはいろいろあるべさ。それは死ぬまでずっとだ。けどな、俺はいつでも喜三太の味方だ。世界中の人がおめえが悪いって責めるときがあっても、俺だけは喜三太は悪くないって言ってやる。おめえが変なやつだっていって笑っても、俺はそういうおめえがいっちゃん好きだべって言ってやる。人生に辛いことはいろいろあって、俺はどんなにがんばってもおめえからそういうもん全部とっぱらってやることはできねえ。けど、俺は最後までおめえの味方だ。なにがあってもおめえを泣かせるような真似だけはしねえ。俺のいのちにかけて約束する。この約束を、ずっと覚えててくれな」
からめた指の感触まで覚えている。そのくらい、与四郎はなんども喜三太に誓ってくれた。けれども喜三太は、このとき、与四郎を疑っていた。
「もしもし、」
という声がかすかにふるえていた。それに気付いてか気付かずか、与四郎は
「元気か」
とたずねた。喜三太はその言葉だけで息がつまりそうだった。いつ、故郷に戻ってきたら結婚するぞといわれるかと気が気ではなくなった。与四郎が嫌いなわけでは決してない。結婚するのだって、早すぎるという気持ちはあるにせよ、嫌だという気持ちはまるでない。
ない、はずだ。
なのに喜三太は、与四郎から帰ってこいといわれるのを、ひどく恐れた。いっしょになるぞといわれたら、大声をあげてわめいてしまうだろうと思った。自分でもどうしてこんな気持ちになるのかわからなかった。頭が混乱してひどく苦しかった。
「与四郎先輩、どうしてぼくに電話くれたの」
ふるえた声でたずねたら、与四郎は少し黙ったあと、すこし不思議そうに
「いや、ただ声が聞きたかっただけだ。元気してるかーって思ったんだ。今度の連休にでも帰ってこれんのか。久々におめえに会いてえ」
会いたいといわれて、喜三太は、結婚のために必ず故郷に帰ってこいと念をおされているような気になった。
「ちゃんと帰ります」
という返事が、不自然にふるえた。勝手に涙がでてきて、喜三太はこぶしで乱暴にそれをぬぐった。なんで泣くんだ、ばか。かなしくないのに。与四郎せんぱいのこと、ちゃんと好きなのに。泣いたりしたらかわいそうだと思った。与四郎先輩がかわいそう。こんなによくしてくれるのに。婚約者ってだけで、こんなに親切にしてくれるのに。結婚したくないなんて思ったらばちがある。
「喜三太、なにかあったんか」
電話ごしの声が低くなった。なんにも、とあわてて否定した喜三太に、与四郎はいたわるような口調で語りかけた。
「喜三太、俺はおめえの味方だ。元気だせ」
その言葉のあんまり優しいのに、喜三太は今度こそ声をあげて泣いた。学校がつれえのか、腹がいてえのか、友達とけんかしたんか、といろいろたずねてくるのに構わず、受話機ごしで甘えるようにわんわん泣いた。与四郎は、最後には黙ってそれを聞いていてくれた。なんにもいわず、受話機を切らないで、でも受話機ごしにちゃんとそこにいて喜三太を受け止めてくれていた。受話機ごしの気配を感じながら、喜三太は、制服のスカートの裾をプリーツがぐしゃぐしゃになるくらいつよく握って、ある決心をした。