故郷の人から電話だというので受け取ってみたら、与四郎からだった。与四郎が時々心配してかけてくれる電話は、喜三太にとって毎回とても嬉しいものだが、今回ばかりは弾んだ声が出せなかった。喜三太は、故郷のリリイばあちゃんがすでに与四郎になんらかの話をしたのだと思って、電話の内容をあやしがった。
喜三太は、リリイから、「16になったらお前は錫高野のせがれと結婚するのだ」と言い聞かされてきた。錫高野与四郎は喜三太より年上の青年だが、昔から喜三太に優しかった。喜三太にとって神奈川の小学校時代は、必ずしもいい思い出とはいえない。かわりものの喜三太は、同い年の女の子からは避けられることが多かったし、男の子からはひどい言葉でからかわれた。その時分、与四郎はすでに中学生だったが、部活があっても試験があっても喜三太が泣いて彼のもとを訪ねると、なんでもほっぽって喜三太の話を聞いてくれた。小学校でいじめられているのだという話をしても、与四郎は黙って最後まで話を聞いてくれたあと、
「俺はなにがあってもおめえの味方だ」
と言って、それから涙がとまるまでいっしょに遊んでくれた。
与四郎はことあるごとに言った。
「喜三太、生きてる限りつれえことはいろいろあるべさ。それは死ぬまでずっとだ。けどな、俺はいつでも喜三太の味方だ。世界中の人がおめえが悪いって責めるときがあっても、俺だけは喜三太は悪くないって言ってやる。おめえが変なやつだっていって笑っても、俺はそういうおめえがいっちゃん好きだべって言ってやる。人生に辛いことはいろいろあって、俺はどんなにがんばってもおめえからそういうもん全部とっぱらってやることはできねえ。けど、俺は最後までおめえの味方だ。なにがあってもおめえを泣かせるような真似だけはしねえ。俺のいのちにかけて約束する。この約束を、ずっと覚えててくれな」
からめた指の感触まで覚えている。そのくらい、与四郎はなんども喜三太に誓ってくれた。けれども喜三太は、このとき、与四郎を疑っていた。
「もしもし、」
という声がかすかにふるえていた。それに気付いてか気付かずか、与四郎は
「元気か」
とたずねた。喜三太はその言葉だけで息がつまりそうだった。いつ、故郷に戻ってきたら結婚するぞといわれるかと気が気ではなくなった。与四郎が嫌いなわけでは決してない。結婚するのだって、早すぎるという気持ちはあるにせよ、嫌だという気持ちはまるでない。
ない、はずだ。
なのに喜三太は、与四郎から帰ってこいといわれるのを、ひどく恐れた。いっしょになるぞといわれたら、大声をあげてわめいてしまうだろうと思った。自分でもどうしてこんな気持ちになるのかわからなかった。頭が混乱してひどく苦しかった。
「与四郎先輩、どうしてぼくに電話くれたの」
ふるえた声でたずねたら、与四郎は少し黙ったあと、すこし不思議そうに
「いや、ただ声が聞きたかっただけだ。元気してるかーって思ったんだ。今度の連休にでも帰ってこれんのか。久々におめえに会いてえ」
会いたいといわれて、喜三太は、結婚のために必ず故郷に帰ってこいと念をおされているような気になった。
「ちゃんと帰ります」
という返事が、不自然にふるえた。勝手に涙がでてきて、喜三太はこぶしで乱暴にそれをぬぐった。なんで泣くんだ、ばか。かなしくないのに。与四郎せんぱいのこと、ちゃんと好きなのに。泣いたりしたらかわいそうだと思った。与四郎先輩がかわいそう。こんなによくしてくれるのに。婚約者ってだけで、こんなに親切にしてくれるのに。結婚したくないなんて思ったらばちがある。
「喜三太、なにかあったんか」
電話ごしの声が低くなった。なんにも、とあわてて否定した喜三太に、与四郎はいたわるような口調で語りかけた。
「喜三太、俺はおめえの味方だ。元気だせ」
その言葉のあんまり優しいのに、喜三太は今度こそ声をあげて泣いた。学校がつれえのか、腹がいてえのか、友達とけんかしたんか、といろいろたずねてくるのに構わず、受話機ごしで甘えるようにわんわん泣いた。与四郎は、最後には黙ってそれを聞いていてくれた。なんにもいわず、受話機を切らないで、でも受話機ごしにちゃんとそこにいて喜三太を受け止めてくれていた。受話機ごしの気配を感じながら、喜三太は、制服のスカートの裾をプリーツがぐしゃぐしゃになるくらいつよく握って、ある決心をした。
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