妖怪パロ。
平安京の豆腐小僧こと兵助は、猫又と縁側で日向ぼっこをしている時間が好きだ。猫又が縁側でころんとまるくなってすやすや腹を上下させているのを、豆腐を片手にじっと見ているのが好きなのだった。小春日和の平安京はぽかぽかと晴れ渡り、美しい。世は並べて事もなし。平和いとよろし。あなうれし。
名前を貰ってからというもの、どういう力が働いたのだか兵助はあれからさらに成長して、今では見目麗しい凛々しい青少年の容姿である。猫又を見つめる瞳を縁取る睫毛はツンと長く天を示し、ふ、と零れたような笑みを刷く口元は薄く珊瑚の色である。絹豆腐のごとくすべやかな白い肌を、頬だけほんのりと桃色に上気させ、あたかもそれは紅葉豆腐。うっとりとした瞳で、
「猫又可愛いなああ~」
と呟きさえするのだ。
だが、そんな兵助の至福の時間は、慌しく屋敷に戻ってきた、へっぽこ陰陽師小松田秀作の足音によって破られた。どたどたどたどすどすばったんどかどかっ!古い屋敷の床は、秀作の乱暴な足運びに耐え切れず悲鳴を上げる。猫又は、にゃあ、と顔を上げると兵助を見上げた。兵助は縁側にやってきた秀作を睨みつけて「うるさい!この無職野郎!」と豆腐をぶつけた。いつもならむきになって言い返す秀作も、その日は豆腐を手でぬぐい落とすと、それどころではないと猫又の前に正座する。猫又は猫の姿をしているが、その実は齢100歳を超えた妖怪である。もともとは秀作の先祖の飼い猫で、秀作にとってはペットというより育ての親ともいっていいような存在であった。
「タカ丸さん、聞いて!聞いてください!」
「なあに、秀作。今日は陰陽寮の就職面接の日だったね。うまくいったかい?」
「あ、それは、全然うまくいきませんでした。僕の答弁、どうもあんまりよくなかったらしくて、親を泣かせるなって面接官から叱られちゃいました」
猫又のタカ丸はいつものことだと穏やかに微笑んだが、兵助は、呆れ果てた様子で彼を見返した。秀作は、見習い陰陽師だが能力がへっぽこなうえ不器用なので、なかなか就職がままならぬのだった。
「秀作、いい年した男が、いい加減きちんと就職して猫又を安心させてやれよ」
兵助が溜息混じりに言うと、秀作は「だからっ、」と弾んだ声で言い胸を反りに反らせた。
「職が見つかりそうなんですっ!」
「おやあ?」「なにっ!?」
これにはふたりのあやかしも目を見開いて目の前の出来の悪い人間を見る。タカ丸がよかったねえ、と微笑めば、兵助は胡散臭いような表情をして「自棄を起こしてとんでもない仕事拾ったりとかじゃないよな?労働条件とか、納得いくまで確認したか?福利厚生は?」
「あのね、豆腐小僧君、君僕をなんだと思ってるの。きちんとしたお仕事かといわれれば、これ以上保証のあるお仕事なんてそうそうないさ。僕を雇ってくださる方は、親王様なんだから!!」
これにはさすがのタカ丸も余裕の笑みを消した。おそるおそる確認する。
「秀作、親王様って、どなた?」
「親王って名前の一般人か?」
「違うよ、失敬な!だいたい、親王様に失礼だろう。僕を雇ってもいいといってくださったのは、まごうことなき東宮七松様だよ!」
兵助は思わず「胡散臭い」と唸ってしまう。七松親王といえば、華村帝の東宮で、あられるお方だ。次期天皇こそ華村帝の弟である冷泉親王に決まっているものの、その資格を有している大変高貴な人物なのである。そんな人物が一介のプー太郎陰陽師小松田秀作に声をかけるであろうはずもなく、兵助は秀作が騙されているのだと思った。
「嘘じゃないんだから!面接が終わって御所の隅っこで溜息をついていたんだ。そしたら、ちょうど親王様が参内なされていてね、僕にお声をかけてくださったんだ。もし陰陽師として働く気があるのであれば、雇いたいがどうか、と。僕はもちろん、その場で力強く頷いた。働かせてください、働きたいですお願いしますって!そしたら、明後日面接に来いというんだよ!いやあ、残るものには福来るというか、長年無職やっていたけれど、とうとう報われるときが来たんだなあ。人生捨てたもんじゃないね」
盛り上がって歓喜の涙を流す秀作に、兵助は困り顔だ。横目でタカ丸を見遣れば、彼も苦笑して兵助を見返した。ふたりとも、それが本物の七松親王とは思っていないようである。
さてこの一件、どんな顛末になることやら。
妖怪第二部。豆腐小僧のターン!
---------- キリトリ -----------
猫は人に飼われる、豆腐小僧は猫又に飼われる。
小僧は猫又が呟くその冗談が好きで、よくせっついては猫又にそれを言ってもらい、そのたびに声を上げて喜んだ。猫又は猫が長く生きて変幻したあやかしだ。その昔、猫又は、優作という青年に飼われていたのだそうだ。とても大切にされていたらしく、首につけられた鈴は彼に貰ったものなのだと自慢げに揺すってみせる。りんりんと静やかな音をだすそれが羨ましくて、小僧は、
「俺にも鈴をくれろ」
と強請った。猫又はぽかぽかと陽気の差し込む縁側にゆったりと足を崩して座ると、幸せそうに目を細めて外を見ている。猫又の飼い主の優作はとうに死んで、今は優作のやしゃ孫の秀作が家を切り盛りしている。秀作はかなり不器用な性質で、頭のつくりもさほどよくないから、いつも猫又に知恵を借りて日々を生きている。秀作は、京で陰陽師をしている。とはいえ、帝に仕える陰陽師にはもっと立派で力のあるやつがいるから、秀作は、狐つきとか、小さな仕事ばかりをせっせとこなして生計を立てている。秀作は帝に仕える陰陽寮の陰陽師になりたいらしいが、猫又は、器じゃないと微笑んでは、人間もあやかしもそれなりがいちばんと微笑んでぽかぽか陽気の中昼寝をしている。
豆腐小僧は、三年前に猫又に拾われた。その頃は満足に言葉も喋られぬ小さな妖怪だったが、猫又に飼われるうちに知恵がつき、身体も、小僧と呼ぶのははばかられるほどに育ち始めた。秀作は、「これじゃ豆腐少年だ」と指差しで笑うのだが、小僧のなかでは「猫又>>>俺>>(越えられない壁)>>>秀作」の構図をもっているから、猫又に「小僧」と呼ばれるうちは秀作がなんと言おうと自分は小僧であると胸を張って主張している。
「おい、猫又、俺にも鈴をくれろ。俺はお前の豆腐小僧だ、なあ、その証拠に鈴をくれろ」
「小僧、お前、人のものをすぐに欲しがるのはよしなえ。みっともないよ」
にゃあ、と猫又は鳴く。ふわんふわんと、三叉に裂けた尻尾が揺れている。
「そんなら名前をくれろ」
猫又は秀作に、タカ丸と呼ばれている。その名前は、優作が猫又にくれたものだという。自慢の名前だよ、誰にもあげない。と猫又はいつも嬉しそうに言う。名は存在を縛るから、あやかしが名前なんてもっていたらよくないはずだのに、猫又は、優作ならいいのだという。僕はいっしょう、優作のもの。そういっては、ふにゃん、と笑う。
小僧はそれが羨ましくて仕方がない。自分も、いっしょう、猫又のものが好い。
「名前ねえ、なにがいいだろうね」
猫又はゆっくり舟をこぎながら呟いたので、小僧は名前がもらえることが嬉しくて、屋敷中を飛び回った。そうしたら、奥から寝起きの秀作が出てきて、「静かにしろ、豆腐小僧!お前の豆腐食っちまうぞ!」と脅したので、小僧は持っていた豆腐を顔面にぶつけてやって、「うるせー、秀作!昼間まで寝てないで仕事探して来い!」と言い返して、あっかんベーをした。「おのれ、就職活動の難しさを知らぬ妖怪めが!」秀作とどたんばたんと屋敷中を鬼ごっこして遊んでいたら、ふたりして猫又に叩き出された。猫又は縁側で、優作に貰った真っ赤なべべを被って、日向ぼっこして眠っている。豆腐小僧は、名前を貰うお礼に自分も猫又にべべをやろう、と京の市へ繰り出した。
羅城門のそばに、女のあやかしが一人ぼんやりと立ち尽くしていた。背中に白骨を背負った狂骨と呼ばれるあやかしだった。真っ赤な太い柱に背をもたれかけてぼんやり遠くを見ている。
「おい、」
と小僧は声をかけた。好奇心旺盛な小僧は、見知らぬものにあったとき、まず声をかけることにしている。
「豆腐食うか」
女はぼんやりと豆腐小僧を振り返ると、「豆腐って、何、」と聞いた。
「豆腐は豆腐だ。美味いぞ、なあ、豆腐食うか」
「知らないやつから知らないもの貰ったら駄目だって言われてる」
「知らないやつじゃない、俺は、豆腐小僧だぞ」
女は首を傾げる。それから、のんびりと、「三郎がいいって言ったら、いいの。三郎は、今、どっかにいっちゃった」
小僧は首を捻ってまじまじと女を見ると、「三郎ってやつが、あんたの飼い主か」と尋ねた。女はまた、ぼんやりと首を傾げる。
「飼い主って、何」
「自分の名前を握ってるものさ。そいつにだけは自分の全部を預けられる、そういう相手のことだ」
「三郎は、私の名前を知ってる」
「じゃ、そいつがおまえの飼い主だな」
したり顔で頷いた豆腐小僧の背後から、雷蔵、と声がした。小僧が振り返ると、金色の狐が立っていた。九尾の狐だ、小僧は思ったが、それにしては尾が八本しかない。
「三郎」
と、狂骨は小僧に向かって指をさしてみせた。小僧はびっくりして、目を丸くしている。九尾の狐といえば、あやかしのなかでもとても位の高い存在だ。猫又はよく今は昔の、玉藻御前の話を語ってくれた。帝に取り入った絶世の美女の哀れなお話。
唖然とする小僧に、三郎は目を向ける。つまらないものを見たとでも言うように、ふい、と視線を逸らすと、雷蔵の足元に擦り寄った。
「雷蔵、行こう。東にいると聞いた」
「三郎、三郎は、私の、飼い主なのね」
雷蔵はしゃがみ込むと、三郎の身体を抱きしめた。三郎が豆腐小僧を振り返る。その冷たい瞳に、ひい、と豆腐小僧は首をすくめた。
「違う、雷蔵、お前が俺の飼い主だよ。三郎という名前はお前がくれたものじゃないか」
雷蔵はぼんやりとした瞳で、三郎、と呼びつけてじっと毛並みを撫でている。三郎はその頬をぺろぺろと舐めてから、豆腐小僧を振り返って、「去ね」と吐き捨てるように言った。
豆腐小僧が帰ると、猫又は目を覚ましていて、遅かったねと小僧の頭を撫でてくれた。それから、くんくんと鼻を鳴らして、「おや、狐の匂いがする」と驚いた顔をした。
「ああ、羅城門の前で九尾の狐にあったよ。・・・尾が八本しかなかったけれど」
「へえ、珍しいね」
「三郎って呼ばれてた」
「ああ、あの偏屈か、京を出て行ったと聞いていたのに、帰ってきたんだね」
にゃあ、と猫又は鳴いた。小僧は猫又の隣に腰かけると、「なあ、俺の名前は考え付いたか」と催促した。猫又は目を細めて、「兵助、というのはどうだい」と言った。「好く兵を助く、よい名だろう」
「兵助か、うん、悪くないな。兵助かあ」
小僧は、兵助、兵助と何度も呟いてから、へへへ、と笑みを零した。猫又も目を細めて微笑んだ。
鵺が死んで三年目の春のことである。
妖怪パロ。
ま、第一部完的な感じで。もし二があれば絶対くくタカ出す!
---------- キリトリ -----------
「梃子摺らせてくれる」と伊作は汗を拭いながら呟かずに居れなかった。破魔の呪を彫った岩に三郎をやっとの思いでくくりつけてやった。何十にも麻縄で岩に身体を巻きつけた後、三郎の眼前にどかりと座り込んでひたすら呪文を唱える。それは三郎狐の妖力を封じ込めるためのものだったが、思うように効いてはくれず、三郎に縄を引きちぎらせない程度に押さえ込むことしか適わないでいた。
「俺を殺すか、下郎」
地を這うような声で三郎が吐き捨てた。伊作は知らぬ顔で呪文を唱え続けている。
「殺しても無駄ぞ、俺は滅した後もこの村だけは許さん。一生祟ってやるわ。作物の実り育たぬ死の土地にしてやろうとも」
けけけ、と三郎が笑う。伊作が呪を唱えているそばから、そんなことは無駄だとばかりに伊作の周囲の草木が枯れてゆく。伊作は三郎を睨みつけた。
「この村がお前に何をしたのだ」
「知ったことかよ。お前こそ、余所者だろう、北の匂いがするわ。この村に何の義理があるか知らぬが俺を放しや」
「おい狐、ひょっとしてお前の母親は数年前に退治られた玉藻御前ではないかね」
くわ、と三郎が怒りに口を開いた。ぶわりと体中の毛が逆立つ。三郎の前で玉藻の話は禁句だった。三郎が遠吠えすると、遠くでごろ、と雷がした。伊作が振り返る。
「む、いかん、鳴る神か。鵺が来る」
鵺は雷神で、鵺の参上するときは必ず雷が鳴るといわれている。三郎は表情ひとつ変えてはおらなんだが、内心では伊作以上に焦っていた。いかん、これでは間に合わん。鵺との約束が果たせぬ。
「おい坊主、貴様京の鵺退治を見に行くのだろ。ここにいて俺にかかずらっていてよいのか」
「お前を放して村人を喰わせるわけにいかん」
「ふん、ではお前一生俺の前で呪でも唱えているつもりか。阿呆が、お前程度の力で俺を見くびるでないよ」
確かに、気休めの封呪措置だとは伊作も気づいてはいた。死んだものならともかく、生きたあやかし封じなど、伊作の本職ではないのだ。伊作が苦々しい顔をすると、三郎狐はふふんと笑って、「お前を喰らう代わりに俺を放さぬか」と言った。伊作は首を振る。
「いやさ、私よりこの村の安全を約束してくれ」
三郎狐は酷薄そうな瞳を細めて伊作を見つめた。馬鹿な人間にかかずりあったと面倒な気持ちが湧いて出る。しかしやがて、よかろう、と頷いた。伊作は確かだな、と疑って簡単に呪を解くことをしない。三郎はしばし逡巡して、
「確約が欲しいのなら俺の尾を一本やろう」
と言った。伊作は驚いた。九尾の狐にとって、尾は魔力だ。「いいのか」と問うと「くどいわ、早くしろ」と返事。伊作は尾の一本を掴むと、根元から懐に忍ばせた短剣で切り落としてしまった。坊主がそんなものを持つなどと、どうもこれは怪しい男であると三郎は思ったが、ともかくも急がねばなるまい。伊作が縄を外すと、京に向かって一目散に駆け出した。冷たい夕の風が尾をなくした尻に酷く染みたが、そんなものに気をとられている暇もなかった。伊作は脱兎のごとく駆け出していった狐を見つめて、「こりゃあますますきな臭いぞ」と鼻をひくひくと動かして曇天を見上げた。ごろごろごろと音はどんどん近くなっている。びかびかと青い光が天を裂き始めた。
「いかんいかん、私も急がなけりゃあ」
立ち上がった途端、懐からころりと石が飛び出して、伊作は慌てて拾い上げた。その石は封魔の札で巻かれている。伊作はそれを両の手で大切に握り締めると、「玉藻御前、貴女の息子だ。見たかい、」と優しく語りかけた。
三郎は京へ行く途中に百鬼夜行をいくつも見た。鵺の参上で、京にいくつも門が開かれ、道が出来ているのだ。馬鹿な人間ども、鵺一匹を殺すために、それだけのあやかしを京に通すことになると思う。三郎は内心で嘲笑う。鵺の死体に化けて宮中まで運び込まれたら、そのまま宮中の人間総て屠ってしまおうかと邪悪なことを考える。ひたすら走っていたら、申し、と声をかけられた。申し、申し。それは魂震わすあやかしの声だった。妖怪の中でも位の高い三郎狐に、気安く話しかけられるものなどほとんどない。無礼者はだれぞ、と振り向いて、三郎は目の玉が零れ落ちてしまわんばかりに眼を見開いた。そこに立っているのは雷蔵だった。
青白い顔をして、青白い骸骨を背負って、三郎を呼び止めている。三郎は愕然として、岩で頭を殴りつけられたような衝撃を受けた。息を吸ったまま吐き出すことが出来なかった。雷蔵が、妖怪になってしまっている。俺の知らぬうちに、雷蔵は、死んだのだ。雷蔵は、「どちらへいったらよいのですか」と虚ろに尋ねている。身を揺らすたび骨が鳴った。狂骨だ。世に未練があると、たまにこうして成仏叶わずあやかしとなってしまう魂がある。
三郎は身動きすること叶わず、ぱたぱたと涙を零した。
「雷蔵、」と名を呼ぶと、雷蔵がよくわからぬふうに首を傾げる。
「それはなんですか」
「雷蔵はお前だよ、雷蔵。俺のことはわかるか、三郎だ、お前が助けた狐の三郎だよ」
雷蔵はぼんやり立っている。「三郎、聞いたことがあるなあ、とてもよいものにつけた名だったような・・・」
三郎が瞬きするたび、ぽたりぽたりと涙が零れた。ごうん、と鳴る神が頭上で騒いでいる。ああ、鵺が呼んでいる。行かなければ。しかし走り方も忘れてしまった。雷蔵は草臥れた形で立っている。
「申し、私はどこへ行ったらよいのです」
食満は天に現れた異形の生き物を見上げた。それは大きく、吠えるたびに地が震え、見守る人々は幾人も失神してしまうほどであった。しかし、食満は負ける気がしなかった。胸には昨夜の甘い思い出が居座っている。きっときっと、俺はこのおぞましい妖怪を倒して蔵人の頭になるのだ。そうすれば八左ヱ門もどん何か喜ぶだろう。食満はきりきりと弓を引いた。それはいつかに八左ヱ門から貰った破魔の弓だった。大きな弓で引くのにはひどく力が必要だ。食満はしっかり狙いを定めて、射た。びいいいいいん、と弦の震えが長く宮中に響いた。渦巻く灰色の雷雲が裂かれ、弓は天に昇っていく。
「あ、」
と食満は息を呑んだ。少し手先がぶれてしまったらしい、弓の方向が外れた。しまった、と思い慌ててもう一本の矢を用意する。だが、弓は見事鵺に当たった。食満は瞳を見開いた。そんなはずはない、と思った。
ヒエーッと鵺は一度大きく鳴くと、そのままどさりと紫宸殿の前の庭に落ちた。化け物の首を駆ろうと近寄った警備の者たちを、食満は、止めた。
「心無いことをするな!妖怪といえ、これ以上辱めることは俺が許さん」
食満はゆっくりと鵺に近寄った。そっと手を伸ばしても、鵺は荒い息を吐くばかりで抗うことはなかった。
「お前、自分から矢に当たったな」
食満は、鵺の瞳が見たこともないほどあたたかいことに驚いて慌てて顔を覗き込んだ。
「鵺、」と声をかけたが、鵺はそっと瞳を閉じたままもう動くことはなかった。
「食満様!おめでとうございまする!」
口々に叫んで宮中にいたものみんなが駆け寄る。食満は呆然としたままだ。自分は、とんでもないことをしてしまったのではないかという嫌な後悔が胸に渦巻いていた。あんな優しい瞳をしたものを、射殺してしまった。
「おめでとう、留三郎」
ふいに背後で声がした。八左ヱ門の声だった。食満は振り返って、眉を潜めた。立っていたのは八左ヱ門だが、雰囲気の違うようだった。酷薄そうな表情で、ぱちぱちと手を打つ。
「君は見事鵺を退治たのだ」
「貴様は誰だ」
「俺は、俺はそこに倒れている鵺だよ、留三郎」
にたり、と八左ヱ門の容姿をしたものが笑う。雷は晴れて、真白い月明かりが京を照らしていた。鵺が鳴く夜はもはや永劫こないだろう。
「お前が俺を殺したのだ」
「嘘だ」
食満は吐き捨てるように呟いたが、胸の痛みがそれを否定しきれないでいた。どうして鵺は、自ら矢に当たりに行ったのだ。どうして鵺は、優しい瞳で死んだのだ。どうして八左ヱ門は昨日のうちに逢いに来たのだ。どうして、今日では遅いといったのだ。
「嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!」
食満の懊悩を、眼の前の八左ヱ門がにたにたと見つめている。その尻に、尾が生えてくるのを食満は見た。八つの金色の毛並みをした狐の尾だった。
「お前が八左ヱ門を殺したのよ、馬鹿者が」
吐き捨てるように呟いて、青年はひらりと身を翻すと、紫宸殿から去っていった。
数日後、食満は帝から獅子王という名の弓をおし頂いた。
そしてその数日後、食満はひとりひっそりと京から姿を消す。
秋も盛りを過ぎ、地に落ちた花梨の実は甘く腐りはて、誰も伝えない過去の思い出をひっそりと辺りに匂わせている。