27.誰にとっても辛い仕事
兵助が「信太の森」と触れまわっている少女の話をすると、三郎はしたり顔で「おう」と頷いたので、彼が事情を知っている人間なのだと理解した。
「助っ人というのはお前のことか」
兵助が短刀についた血を、懐紙で拭う。さっさとふき取ってしまわないと、膏がまわって刃はすぐ駄目になる。
三郎は首を横に振った。
「いや、先輩方が言われたのはおそらく”少女たち”のほうさ。俺は、おとり役だ。お前とはたまたま遭っただけだ」
三郎は斉藤の顔を模するのをやめていた。鬘もとって、雷蔵の顔に戻していた。いいのか、と兵助は尋ねた。三郎は内心で(いいわけあるかい、)と呟いていたが、まさか兵助の前で斉藤の死に際の姿でいるわけもいかぬではないか。兵助は三郎が斉藤の変装を解かず対峙したとしても、平気な顔をしているはずだ。・・・少なくとも、表面だけは。それを痛々しいことと思うくらいには、友人として認めて欲しい気持ちが、三郎にはある。
「ふむ、少女たち、か」
探さねばならんのだろうな。兵助が、同級生と話すときの気安さのまま少し面倒くさそうな口調で言ったので、三郎は苦笑して、少女の正体を教えた。
「うちの誇るべき四年の天才どもだよ」
兵助はあからさまに嫌な表情を浮かべた。兵助は、あれら四年が苦手だった。三郎は気に入っているらしいが、ああいう自分から目立とうとする主張の激しい人間が苦手なのだった。いかにも”押し付けられた”と言いたげな表情を浮かべているので、三郎は滝夜叉丸と三木ヱ門が哀れになって、
「まあそう邪険にしてやるな。確かに、忍びなのに忍んでないという突っ込みどころはあるがね、でも、まあ、腕が立つのは確かさ。決してお前の邪魔にはなるまいよ」
と笑ってフォローした。そうして、兵助に背を向けた。
「さて、そろそろお互いの仕事に戻るとするかい」
三郎が猿楽師のようにくるんと宙返りする。そこにはまた、亡霊のようなタカ丸の姿がある。兵助は苦々しいものを見るように眉を潜めた。三郎はさっさと行ってしまおうとした。この姿を兵助に見せたくなかったに違いあるまい。しかし、兵助のほうで肩を掴んで三郎を振り向かせた。
「何だ」
「三郎、お前は、タカ丸の・・・死体を見たのか」
「・・・見た」
しばしの逡巡の後、三郎は小さく頷いた。兵助の瞳が曇った。
「それではこれが最期の姿か」
整った長い指が伸ばされて、三郎の頬を撫でた。その動きがあまりに労わるような、優しいやり方だったので、三郎は息を呑むしかなかった。ふと気づくと、兵助の思いつめたような瞳が三郎を見つめている。三郎は耐え切れなくなって視線を外した。この場から去ってしまいたい、と思う。目の前の友人の壮絶なまでの絶望から逃れてしまいたいと思う。兵助の瞳は、三郎ではなくタカ丸を見ていた。
「かわいそうに、」
と哀れむ声が兵助の口から零れ落ちた。頬を撫で擦る指先が震えている。
「こんなに蒼くなって、真冬の水は冷たかったろう」
「・・・兵助、」
呼びかける声が震えてしまった。タカ丸の声帯など模さなかったのに、兵助はすっかり三郎の上にタカ丸を見ている。
「かわいそうに、かわいそうにな。最期のときは苦しかったか、痛かったか。怖かったろう、」
「兵助」
「そばにいられなくてごめんな。ごめん、ごめん・・・」
ごめん、ごめん、と謝り続ける友がなんだかとても不憫で、三郎は口を噤んで黙ってしまうより外ない。ああ、この男は、壊れるときは、こうやって静かに静かに壊れていくのだな。そう考えて、三郎は戦慄する。タカ丸さん、あんたが死んでしまうと、俺の友はこんなふうに狂ってしまうようだよ。
大人しく立ち尽くす三郎を、兵助は両腕でいとおしむように頭やら顔やらを撫で擦り、そのままそっと唇を吸った。唇はすぐに離れた。呆然とする三郎を突き放すようにすると、兵助はとうに夢から覚めたようないつもの面持ちで、「三郎、抜かるなよ」と生意気な一言を残して去ってしまった。残された三郎は身動きすることもできない。
傍の大樹に潜んでいた雷蔵が、すとん、と落ちてきた。放心したような三郎を往来からはわからぬようにそっと抱きしめる。
「よしよし、辛い仕事をさせられてしまったね、三郎」
優しく髪を梳いてやる。我ながら、母親じみた滑稽な慰め方だとは解っていたが、三郎が心底落ち込んだときはこれが一番効くのだと雷蔵は知っている。それにしても、ああ、嫌な任務だ。誰も彼も辛い思いをしすぎている。
「さっさと終わらせて、汁粉でも食べよう、三郎」
26.邂逅、あるいは怒りの兵助
市井をふたりの少女が歩いている。品定めをするように市のあちこちを眺め廻り、時には品物を手に取りながら。ふたりの少女は目鼻立ちがくっきりとしているところへくわえ、紅やら眉墨を刷いて美しく化粧していたから、大変目立ち、周囲の視線を集めていた。声をかける男も幾人かいたが、少女たちは容易に頷くことをしなかった。その断り方が、変わっている。思わせぶりな笑みを浮かべて、
「信太の森をご存知?私、其処へ行きたいわ。連れて行ってくださる」
と尋ねる。男たちは誰も信太の森などという地名を聞いたことがなかったから、首を捻って、はて、それはどこにあるのでしょうなどと返す。すると少女は冷ややかな眼をして、「こいつも違う」とか「もう結構」などと身を翻して行ってしまうので、男たちは混乱したまま置いていかれたような気分になって、呆然と少女たちの背中を見送るのだ。
さて、少女たちが練り歩く市中には、兵助もいた。ここで助っ人と合流せよという最上級生たちからのお達しである。忍び装束を脱いで着物に着替えると、うろうろと群衆にまぎれている。正体も知らぬ助っ人とどう出会ったらいいか六年生は何もいわなかったが、伊作は、”合図がある”から大丈夫だと教えてそれっきりだったので、兵助はその合図を、人ごみの中でひっそりと待っている。そのうち、前を行く男が噂話をしているのが耳についた。それは変わった少女の話で、声をかけた男たちに、「信太の森」と行ってまわっているらしい。そんな森あったかなあとぼんやり話こんでいる男たちの後ろで、兵助は視線を鋭くした。信太の森、は忍術学園が共通で使っている隠し言葉だ。兵助は男たちに近づくと、「失礼、」と声をかけた。
「その少女たちをどこで見ました?」
「ああ、河岸のあたりだよ。染物やが店を出している前かな」
「ありがとう」
礼を言う青年は、ずいぶんと整った顔をしていた。涼やかな顔立ちをしている。えらい男前だなあ兄ちゃん、などと噂話を兵助に教えた男たちが世間話に巻き込もうとするのを、兵助は笑顔で流す。そうして去っていこうとした刹那、はたと立ち止まって男たちの肩越しに通りの奥を呆然と見つめた。
「兄ちゃん?」
兵助の表情は見る見るうちに強張り、苦々しげに息を呑んだ。だらりと垂れ下がった腕が、不自然に力の入った拳を握る。
「どうした、気分でも悪いのかい」
兵助は答えない。無言で前方へ歩みだそうとする。男の一人が、様子のおかしい兵助をいぶかしんで、肩を叩いた。だが兵助は立ち止まることはなかった。男も、その横顔を覗き込んで、ヒッ、と息を呑むとそのまま兵助に構うことはなかった。もうひとりの男がのんびりおびえるふうの連れに声をかける。
「どうしたい」
「おっかねえ、あの若衆、堅気のやつじゃねえや。あらァ、俺らと違って怖いもんいっぱい見聞きしてきてるやつの眼だよ」
兵助の前には美しい人がおぼつかなげに立っている。水に濡れた女装束、血の気の引いた蒼い顔。柔らかい明るい色の髪は、乱れきって蒼白の肌に張り付いている。紫色の唇。亡霊のように、それは立っている。
(後ろから短刀で一突きだった。死体は河に落ちた。最後は溺死だよ)
伊作の言葉が耳に響き始める。ガンガンと激しい頭痛がして兵助は眉を潜めた。落ち着け、動揺するんじゃない。あれは偽者だ。・・・斉藤タカ丸は、死んでしまった。もういない。あれは偽者だ。
ほとほとと水滴を垂らしながら彼は兵助の目の前を通り過ぎていく。兵助は、あまりのことに吐きそうだと思った。ふらふらと歩いていくのを、周囲は少し間をあけて遠巻きに見つめている。そのうち、ひとりの男が近寄った。兵助は地を蹴って走り始めた。足音は消えうせ、静かな走りだった。
近寄ってきた男が斉藤に向かいひっそりと短刀を抜きかけたそのときだった。間一髪で間に合った兵助が、慌てて身をすくめた斉藤の頭上を飛び越え、男を脳天から蹴り飛ばした。大衆に男の身体が倒れこむ。群衆から悲鳴があがって、斉藤は、「ありゃりゃ、」と頭を掻いた。兵助は男が立ち上がる前に、その鳩尾に己の足を乗せて体重をかける。蛙のへしゃげたような悲鳴が男の口から漏れた。ばきん、と肋骨の折れる音が響く。兵助は淡々と体重を咥えていく。男が泡を吹いた。斉藤が焦ったように後ろから兵助を抱きしめた。
「もういい、殺すな。兵助」
「わかってる。動けないようにするだけだ」
兵助は気を失った男を前に足を除けると、そのまま男の右足を持ち上げて、懐から取り出した短刀で腱を切った。そうして捨てるように足を手放すと、斉藤に向き直った。
「終わった」
斉藤の顔をした人は苦々しい表情を浮かべている。
「やりすぎだ」
兵助の顔には表情がない。怒らせてしまったのだと、斉藤の顔が歪む。
「お前がそんな顔をしているのが悪い。――三郎、」
例え正体がお前であれ、俺がタカ丸の容姿をしているやつを傷つけようとしている輩を許すと思うか?真顔で問いかけられ、「・・・思いません」と三郎は答えるしかない。
25.忍びの覚悟
豪徳寺が焼け果てことは、あちら側にもそろそろ知れ渡っている頃だろう。誰かが必ず、巻物の確認に来るはずだ。そこを討つ。これ以上の手間はかけられん、一気に仕掛けてとっとと終わらせる。いいな?
***
それぞれが作戦に向けて行動を開始すると、伊作は再び茶屋の二階に上がった。六畳ほどの部屋の隅に、ひとりの少年が壁にもたれるようにしてぼんやりと座っている。市井で求めてきた安い着物を着て、肩に綿入りの半纏を引っ掛けていた。伊作が部屋の敷居をまたぐと、少年の放心したような虚ろな瞳が、ふと彼を見上げた。
「タカ丸さん、辛かったら寝ていてもいいですよ」
タカ丸はのろのろと首を横に振る。ひどく疲れた表情だった。出血のせいで血の気が引いた顔は、青白く、唇も紫色に染まっている。真冬の河に落ちたことで、身体もひどく冷やした。だが、伊作が言うには、河が凍りつかんばかりに冷たかったせいで出血もすぐに止まったのだそうだが。
「背中は痛みますか」
「・・・ねえ、どこへ行っていたの。みんなはどうなったの」
「作戦の練り直しです。大丈夫、じきに終わりますよ。あなたはゆっくり休んでいればいい」
伊作は膝をついて火鉢をかき回す。ふわあと火の粉が上がった。店主に求めた白湯も、伊作が用意した薬も、どっちも手付かずのまま火鉢のそばに除けてあった。白湯はすっかり冷えてただの水に変わっている。伊作はそれを見て溜息をつくと、タカ丸を振り返った。
「飲まなければ酷くなりますよ」
「僕だけそんな・・・できない」
「そんなってなんです、何ができないんですって?」
タカ丸の瞳が潤んだ。「だって、」声が震えている。
「だって、食満くんに人を殺めさせてしまった。僕のせいで、・・・不破くんにも、恐ろしいことをやらせようと・・・僕のせいで、僕に力がないせいで。僕だけこんな、無様に生き延びてしまって、こんなところでぬくぬくと・・・できるわけない」
ぽろり、とタカ丸の瞳から涙が零れ落ちた。伊作は膝を進めるとタカ丸に近寄り、手のひらをかざしてその頬を張った。パシン、と乾いた音がして、タカ丸は驚いたように伊作を見つめた。伊作は声こそ荒げたりはしなかったが、静かに怒っていた。鋭い視線でタカ丸を見つめ返すと口を開いた。はっきりと、ゆっくりと、タカ丸の心臓に打ち付けてでも行くかのように言葉を発した。
「貴方は、僕たちを舐めているんですか」
「・・・いさ、」
「僕たちはまだ未熟だけれど、忍者です。食満も不破も、そんなことは覚悟済みだ。学園に入ったときから、とっくに覚悟を決めていなきゃいけないことなんです。貴方にそれを哀しむな、とは言わない。貴方が哀しんでくれることで、辛い覚悟を堪え忍んでいる人もいるから。だけど、そんなことを気に病んで、貴方が負い目を感じるのは間違っている。貴方も、日は浅いけれど学園に籍を置いた一人の忍たまでしょう、覚悟を決めてください」
「覚悟、」
伊作が頷いた。
「人のために己の手を汚す覚悟。それから、自分のために誰かの手を汚させる覚悟」
タカ丸は息を呑んだ。そのまま、無意識に身体が逃げようとするのを、伊作がしっかりとその手を握った。熱い、とタカ丸は呟いていた。彼の冷え切った手のひらに伊作の手はあまりにも熱かった。
「生き抜く覚悟をしなければならない。忍者はぎりぎりまで自分の命を諦めないんです。自分が死ねば、そのぶん戦力が欠けますからね。理想のためにその身を犠牲にするとかなにかに殉ずるなんてそんなことをしてはいけない。ぎりぎりまで足掻くんです、しぶとく生き残ろうともがくんです。そのために誰が手を汚したって辛い思いをしたって、必要以上にそのことを気負ってはいけない。貴方が生きていることでその誰かは報われている、そう考えてください」
タカ丸は眉を寄せた。酷い覚悟だと思った。「できませんか?できないなら早々に学園を去ったほうがいい。まがりなりにも六年在籍した僕からの、おせっかいな忠告です」
伊作の言葉はどこまでも遠慮がなかった。優しい雰囲気を纏った男だけれど、誰より芯が強い、とタカ丸は思った。伊作は、おそらくは学園の生徒のなかで最も死体に出会ってきた男だった。
「食満や雷蔵に報いたいと思うのなら、薬を飲んでください。そして、ゆっくり身体を休めて、出番までになるべく回復しておくんです。貴方が体調を酷くすると、仲間に迷惑をかける。わかりますね?」
タカ丸はそろそろと頷いた。伊作はにっこりと微笑む。それから、タカ丸に向かって頭を下げた。
「貴方の優しさにひどい口を利いてすみません」
タカ丸はふるふると首を振った。口を開こうとしたら、伊作は先に言葉を吐いた。
「果報です。取り返しましたよ、貴方の巻物。今は作戦のために潮江がもっていますが・・・事が済めば貴方にお返しします」
タカ丸の頬に朱がのぼった。
「巻物が見つかった、・・・本当に?」
「はい」
「ありがとう」
声が震えてうまく礼がいえなかった。タカ丸はありがとう、ありがとう、と何度でも言葉を繰り返した。幼い頃の恐怖に縛られていた自分が、ようやっと、消えるかもしれないと思った。伊作は微笑んだままだった。
23 闇
間も無く半刻が経つというころになって、雨が降り始めた。激しい雨ではなかったが、みぞれ交じりの氷雨だった。綾部は手のひらに息を吹きかけて曇天を見上げていた。戦うにはやりにくい天気だった。わずかに眉根がよっているのをみれば、この男は案外わかりやすい男だということに気がつくかもしれない。
綾部はとてもわかりやすいよ、といつぞやにタカ丸が言ったことがあった。だが、綾部はそれを信じなかった。彼は常に周りから表情の乏しい、思考の読めぬ子どもだといわれ続けてきた。だから己は、そういう人間なのだろうと思っている。忍者を目指したのも、お前は心がないから忍者に向いていると誰かに言われたからだった。タカ丸が綾部のことをわかりやすいというのは、彼が特別に自分のことをわかってくれるからだと綾部は信じた。
かさり、と草を踏みつける音が聞こえて、綾部は思考をやめた。振り返らずとも、足音の具合でだいたいの正体は掴める。そうしてそれは、綾部が今話をしたい相手ではなかった。それは向こうとて同じだろう。だか相手のほうは、仕事のためなら自分など消してしまえる。彼にとっては今、自分のことも綾部のことも、仕事を達成するための道具に過ぎぬだろう。
「久々知先輩、なんです」
「いや、雨が降ってきた。身体が冷えるからさがったほうがいい」
「わかりました」
と返事をして、綾部は動かない。空ばかり見ている。久々知は立ち去ろうとしたらしかった。小さく葉が踏みつけられる音がした。
「先輩、」
と綾部は呼んだ。足音が止まった。綾部は背中を向けたまま、尋ねた。
「感情のままに相手を殺したいと思ったことがありますか」
「・・・ある」
久々知は少しの躊躇いのあとに、はっきりと答えた。綾部は黙っている。それから、たっぷりの沈黙のあとに、なにかを噛み締めるようにゆっくりと言った。
「初めてなんだ。・・・自分の中で、色んなどす黒い感情が蠢いているのがわかる。濁流が鉄砲水みたいに押し寄せてきて、私を押し流そうとしている。誰かをひどく傷つけてしまいたい。私にはその力がある。・・・私には力がある、のに、どうしてなにもできなかったっ・・・?」
綾部には珍しく、激しい口調だった。久々知は瞳を瞬かせた。
「俺は子どもの頃に、家族を失った。賊に殺されたんだ。俺の留守中に、俺の屋敷に盗みに入ったのがばれてね、逆上して俺の家族を奪ってしまった。今考えると、向こうも混乱して我を失っていたんだろうな。そうじゃなければ、どうして俺の父上が負けたのか・・・わからないくらい、力のないやつだった。十になる頃に、殺した。学園に入る前だ、復讐のつもりだった。殺したってどうにもならないことはわかっていた。なにをしたって、一度死んだものは再び蘇らない。だが、殺さないと俺が生き残ったことに納得がいかなかったんだ。結局俺は、一人で生きていくことの辛さを、復讐で支えようとしていたんだな。俺はたぶんどこかが壊れてしまっていて、俺の周りのごく狭い世界以外のことにはすごく無感情なんだ。例えば今ここで、」
久々知が言葉を切った。綾部が振り返ると、久々知は平然とした表情で、川向こうの岸で、忙しそうに傘を差して走ってゆく人々を見ていた。綾部も視線を転じる。
「あの人たちが死んでしまっても、俺は何も思わない」
冷たい雨が頬を打ち付けている。綾部は眼を細めて久々知を見遣った。睨みつけるようだと自分で思った。久々知の長いまつげに滴が絡んでいる。この人も、泣いたのか。それともただの雨粒か。
「だけど、斉藤が同じ光景を見たら、あいつはきっと泣くだろう。どうしてこんなひどいことが、といって、泣くだろう。泣いたって何も変わらない。だけど、それでもきっとあいつは泣く。俺は、知らない他人が死ぬのはどうだっていいけれども、斉藤が泣くのは嫌だ。だから、見知らぬ他人の命でも、どうか無事出会ってくれと思う。俺は壊れ物だけれど、斉藤がいると、少しずつ人に戻っていくような気がするんだよ」
「私はあの人のためなら鬼に成り果てても構わないと思っている。あの人を傷つけるものすべて、壊しつくしてやりたい」
闇に落ちたっていいんだ、と綾部が呟いた。それは、独り言にしては切ない響きを負っていた。どこか、とても真摯な告白のようだった。久々知は視線を足元に落とした。
「やめろ、斉藤が泣く」
綾部は唇を噛んだ。かすかに鉄の味がした。