その夜、食満の布団のなかへ伊作が入ってきた。夜も更けた頃で、食満は眠っていたが、隣で人の気配がするので、目を覚ました。暗くて伊作の表情は見えなかった。食満は、
「どういうつもりだ」
と言った。関係を切ったのは、伊作のほうからだったはずだった。しかも、最近ではどうやら文次郎とうまく関係を作ったような様子であったのに。食満は困惑した。伊作は、冷たい手のひらで、食満の頬をそっと包んだ。
「だめ?」と甘えるような、縋るような、囁きが聞こえた。食満は、彼のこういう頼りないところにとても弱いのだった。だが、食満は、
「だめだ」
と言った。
「なぜ」
「なぜって、お前からやめようといったんだろう」
「・・・ねえ、留さんは、私のことが好きだよね?」
食満は、伊作のずるさに苛立った。伊作の薬草くさいにおいはひどく懐かしく、食満は抱きしめたい思いに駆られていたが、彼の身体を布団から押しだした。
「寝ろよ、もう」
「もしかして、もう、私のことなんか好きじゃなくなっちゃった?」
「なに言ってるんだよ、そんなことお前に関係ないだろ」
「関係あるよ」
「ないよ。好きだとか好きじゃないとか・・・今更なに言ってんだ、俺のこと好きじゃないのは、お前だろ、伊作。お前のほうから俺を切ったんだろう」
伊作からの返事はなく、代わりに重い溜息が闇の中に降ってきた。それから、しばらくして、伊作は黙ってついたての向こうの自分の布団へ戻ったようだった。食満はひどく困惑しながら、頭から布団を被った。もう伊作に振り回されるのはごめんだと思った。ようよう、なんとも思わなくなってきたところだったのに。深く息を吸い込んだら、布団のなかにはまだ薬草の匂いが篭っていて、ひどく打ちのめされたような気分になった。
翌日、食満は試験が終わってから市へ出て一番上質の竹を買ってきた。それで、虫取り網と虫籠を作った。熱心に竹を削って、上薬も塗った。翌日も試験があったが、そっちのけだった。何もかも忘れて、道具を作っている間は、幸せだった。出来上がったら全部、竹谷にやろう、そう思った。
夜になって仙蔵が尋ねてきた。
「まだやっているのか、明日の試験は大丈夫なのか」
と呆れた表情をする。食満が片手間にああ、と頷くと、仙蔵はふんと鼻を鳴らした。それから、
「おい、何に荒れているのかは知らんが、もっと伊作に優しくしてやれ」
とおもむろに言った。食満はびっくりして、顔を上げた。仙蔵と目が合って、持っていた虫籠を傍らへ放り捨てた。それから、唸るような声で、「どうして俺が」と返した。仙蔵は仙蔵でびっくりしたようであったが、食満を見据えて、きっぱりとした口調で「伊作はお前を好いている」と告げた。食満は今度こそ本当に、打ちのめされたような気分になって、荒々しく声を上げた。
「いい加減にしてくれ!俺はこれ以上、伊作のことで気を揉みたくない。なんなんだ、俺のことを好きだといったり嫌いだといったり。潮江と喧嘩でもしたか、寂しくなったら俺のところへ来るのか、俺はあいつの逃げ場じゃない!」
憎々しげに吐き捨てると、その勢いに仙蔵は息を呑まれたようだった。ぽかんと虚をつかれた表情で、まじまじと食満を見返した。
「おい、伊作が好きなのは、お前だぞ、留三郎」
「あいつが好きなのは潮江だ」
「初めはな。けれど、本当の気持ちに気がついたらしい」
「本当の気持ちだと?」
「ああ。潮江と何度か深く話をしてな、心の底にいるのはやはりお前だと気がついたと聞いたが」
食満はぼんやりしたが、それから、その滑稽さに笑いが漏れた。ひどく芝居じみて滑稽だと思った。伊作も、自分も、これではただの馬鹿ではないか。
「今更だ」
吐き捨てるようにして呟いたら、仙蔵はもう何も言わなかった。聡い男だから、こういうときばかりは助かる。食満の傍らに打ち捨てられた虫取り網と籠を見遣って、それは、と口を開いた。
「あの生物委員にやるのか」
「知っているのか」
「最近懇意にしているようだな。・・・五年の竹谷といったか。真っ直ぐな目をして、少し、お前に似ている」
「そうか?」
仙蔵は、食満の表情が途端に穏やかに、落ち着いたのを見た。
「ああ、似ている。弟のようだと思っているのか」
というから、「まあ、そうだ」と頷いたら、仙蔵は少し微笑んで、「なら大切にしてやれ」と言った。
仙蔵はいつも、誰かに対して、よくしてやれ、という。自分ばかりは、いつも他人に対して厳しく接して恐れられているのに。結局不器用なのだな、と思って、食満はまた、道具作りに集中した。
いつも学園を明るく騒がせている下級生たちは、三日前から、野外宿泊訓練に出掛けてしまっている。
学園の生徒は上から下まで何かと騒がしいやつらばかりだから、学園は相変わらずがやがやと何かしら騒々しいが、それでもどこか寂しいような感じは否めない。食満も委員会の活動を少し小さくした。どうせ、下級生が多い委員会だ、彼らがいなければあまり機能しない。富松と用具確認の当番だけ分け合って、あとは放課後を自分のことに使った。六年ともなれば、卒業試験の勉強に就職活動も平行して進めなくてはならぬから、本当は何かと忙しいのだった。毎日飽きずに委員会ばっかりに専念していた食満を、文次郎や仙蔵は半ば本気で心配していたぐらいだった。伊作だけは、食満の性質をよくわかっていて、彼が用具委員会の活動をようやく縮小したことを知って、
「そりゃ留さん、寂しいだろう」
と労わるように笑った。
生物委員会は下級生ばっかりだから、あいつも仕事にならんだろう、とふと竹谷のことを思った。お互い、下級生がいなくなってしまえば会う用事も見つからなくて、かれこれ一週間ほど姿を見ることもなく過ぎ去った。伊作も最近ではきちんと夜を自室で過ごすことが多くなり、最近では珍しいとからかえば、「そりゃあだって、もうすぐ試験だし」とぼやいた。そんなこんなで、別段竹谷のことを深く想うこともなく何日かを過ごした。
中間試験の前日になった。留三郎が、さっさと終わらせようと手際よく用具倉庫で点検をしていると、ふいに光が差し込んだ。なんだと思って顔を上げると、竹谷だった。食満の、訝しげな視線にぶつかると、彼ははにかんだような笑みを見せた。
「お久しぶりです」
「おう。どうした」
「いや・・・」
「お互い下級生がいなくて、ここ最近は大変だったな。とくに、そっちは世話が大変だったろう。お前一人でやったのか」
「あ、孫兵も一緒です」
「ああ、そうか」
「はい」
「でも明日にはみんな帰ってくるから、」
「はい」
「そしたらまた楽になるさ」
「はい」
「まあでも、下級生ばっかりだからなあ、楽になるというのとはまた違うか?むしろ、余計に仕事が増えるといったほうが正しいかな」
「はあ」
食満の軽口に、竹谷はあいまいに微笑んでいる。借りてきた猫のようだ、と食満は思った。竹谷は、倉庫の扉のところに立ったままだった。
「もっとこっちにこい」
「でも、先輩、お仕事の最中ですし」
「そんなことは構わんが」
「それに、俺も急いでますから」
「そうか?」
竹谷は頷く。それから、食満は、そういえば、と思い立ったように言った。
「何の用だったんだ」
「いや、別にこれといった用はないんですけど、」
「そうなのか。あいつらが帰ってきたらまた遊びに来いよ」
これを言う食満の頬は少し赤かった。言い方がぶっきらぼうになってしまった。本心だけれど、口にしてみるとなんだかすごく気恥ずかしいような心持がしたのだった。けれど竹谷は困ったみたいな表情を浮かべた。それで、おずおずと、遠慮がちに、覗うように、「あいつらがいなくちゃ駄目ですか」と言った。
「あいつらがいなくちゃきちゃいけませんか」
食満は最初、何を言われているのかわからなくてきょとんとした。なぜそんなことを竹谷がこれほどまでに勇気を総動員したような思いつめた表情で言わなくてはいけないのかがよくわからなかったのだった。
「俺が、会いたいからっていうのは、駄目ですか」
竹谷の頬はひどく火照っていた。熱でもあるのかと食満は心配した。眉を潜めて、
「そんなことあるわけないだろう」
と言った。
「下級生がいなくても、お前が来たければ、来たらいいさ」
「はい、」
「そんな当たり前のことを、ひどい勇気を出したふうに言うんだな」
「はは、」
「変なやつだな」
竹谷は、今度はにっこりと微笑んだ。それから、「あの、俺この間うまいうどん屋見つけたんで、いっしょに行きませんか」と言った。食満は、おう、と頷いた。それで、竹谷はまた嬉しそうに笑った。
「明日からの試験が終わったら」
「おう」
「じゃあ、俺行きます」
「もう行くのか」
「はい」
竹谷は名残惜しそうに顔を上げて、まっすぐに竹谷を見つめた。それからぺこりと頭を下げて、用具倉庫から出て行った。竹谷の背中が消えてしまってから、食満はふいに、これではいけないと思って、持っていた矢立を放って倉庫の表へ出た。秋の気配が漂う外は、夕日が澄んだ様子で空を焼き、そこに竹谷の背中が切り取られるようにして収まっていた。ひたひたと迫り来る夜の闇の匂いが、食満の鼻をひくひくと刺激した。
「あ・・・」
と食満は何事かを言わねばならぬと口を開いたが、結局何をいっていいものかわからず、そのままぼんやりと竹谷の背中を見送った。
翌朝になって、食堂へ行くと、朝早く行ったはずなのにさっきまで人がたくさんいた気配があった。味噌汁だの白米だのの匂いがあたりに立ち込めているのに、食満は不思議な表情を浮かべた。食堂のおばちゃんが、「ああ、五年生よ」と言った。
「今日から実技試験でしょう、あの子たち。大変ねえ、握り飯と一緒に、饅頭もふかしてもたせてやったわ。私は、この日の朝はいつまでたっても苦手ねえ。毎年のことだけれど」
「あ、」
と食満は阿呆のように口を開けて、思わず呻くような声を出していた。そうだ、五年の中間試験といえば、暗殺があるのではないか。たいていの生徒たちはそこで初めて人を殺める。食満は、それでようやく、昨日の竹谷の変わった様子に合点がいったのだった。そうか、あいつ、覚悟を決めにきていたのか。よくもわかっておらぬまま帰してしまって、かわいそうなことをした、なにより自分が憎らしい、先輩らしいことをなにもしてやれなんだ。食満が唇を噛み締めると、外できゃあきゃあと高い声たちが聞こえてきた。下級生たちが帰ってきたのだ。
食堂のおばちゃんが、慌てたように米びつを開く。
食満はそれをきっかけに、しおれたような様子で机に向かった。食堂は、試験に関する話題でもちきりである。
学園は今日も朝から忙しない。
考えていたオチが変わったので、「子どもが寝たあとで」改題。内容は続きです。
こんなことがあった。その日も竹谷は後輩を連れて用具倉庫に遊びに来ていた。あまりに天気が好かったので、食満は倉庫にこもりきりでいることをなにやら不健康だと感じて、大きく伸びをしながら、どっか遊びに行くかあ、と言った。それを聞いた一年生たちは大はしゃぎして、ピクニックだあ、とか、食堂のおばちゃんにおむすびをつくってもらおうとか、目を輝かせてぴょんぴょん飛び跳ねるので、食満は自分で言い出しながらちょっと驚いて、竹谷を見た。そうしたら、竹谷はくすくすと嬉しそうに笑って、「みんな先輩と出かけるのが好きなんですよ」と言った。それから、「よかったな、一平!」とどこか間の抜けた顔つきが憎めない後輩の頭をわしわしと掻き混ぜた。
裏裏山までみんなで歩いて、頂上でおむすびを食べた。一年生たちがかくれんぼを始めたので、食満と竹谷は青草の上に尻をついて、それをぼんやりと見ていた。風が気持ちよい日だった。そよそよとかすかな風が、柔らかく頬を撫でては後ろへ流れていった。蒼い空は高くて、綿をちぎったみたいな雲が流れていた。食満は、のんびりとした気持ちで、今の自分を取り巻くいろんなことを忘れた。たとえば自分は忍者を目指していて、人の血の匂いを、肉の柔らかさを、知ってしまっているということ。夜の闇の深いこと。背負うべきもの。普段ならば決して忘れてはいけない、そういう重く宿命じみたもののことを、全部忘れた。自分が誰であるかということも、たいしたことではないとさえ思った。隣で竹谷が竹筒の水筒を取り出して、食満に渡した。なかには、熱い茶が入っていた。それをふたりしてこくこく飲んでいたら、竹谷が、「うまい!」と声を上げたので、食満も頷いて、「うん、うまい」と返事をした。むこうでは、きゃあきゃあと、子どもらが走り回っている。
ふいに竹谷が、「兄ちゃんは、」と言った。言ってしまってから、しまった、というような顔をして、食満を見た。食満はふいをつかれたような表情で竹谷を見返した。
「すいません」
「いや・・・」
竹谷は、食満を兄と間違えてしまったのだろう。食満は、苦笑して、それからおもむろに「ハチ、」と呼んだ。食満はそれまでずっと竹谷のことを「竹谷」と呼んでいたのだった。ハチ、とたぶん、自分がこいつの兄ちゃんならそんなふうに呼ぶだろうなと思って、その音を口から出すと、なんだか響きがまるっこいのに、胸がいい具合にざわざわした。竹谷は、ちょっと目を丸くしてから、「はい」と言った。
「なんですか」
「ハチ、」
「はい」
「いい名だ。呼びやすい」
竹谷は少し照れたようで、頬がぼうっとのぼせたようになった。
最近伊作は、夜、部屋に帰ってこない。どこをほっつき歩いているのか知らないが、委員会とか自主練というわけでもなさそうだった。食満が起きる少し前にこっそり帰ってきて、衝立の向こうに、ごろんと転がる。布団を敷く気配もない。それから間も無くして、すうすうと寝息が聞こえてくる。少し前に小平太が、夜中、文次郎と伊作はいつも一緒にいると喋っているのを聞いた。食満はそれから、伊作のいない夜の部屋が嫌いになった。衝立の向こう、しんとした闇がうずくまっていると、食満はいらいらした。伊作のやつ、うまくやったのか。素直に喜んでやれない己の度量の狭さがまた許しがたく、胃を痛めるのではないかというほど気を揉んで、苛々を募らせた。
食満は、気分の悪さで眠れない夜を、竹谷や一年生たちのことを考えて、紛らわせようとした。明日はどうして遊ぼうか、とか、子どもたちの頬の柔らかさとか、ふにゃふにゃの腕とか、竹谷の嬉しそうな顔とか、自分の名前を呼ぶ声とか、一年生を呼ぶときの柔らかい響き、「兄ちゃん、」といったときのばつの悪そうな困り顔。ハチ、と読んだときの照れくさいような表情。それらはみんな食満から何か奪うようなことはない。傷つけるようなこともない。竹谷は晴れた日の風の温度を持っている。太陽の匂いがする。
そのひかりは、食満の疲れた心を、少しだけ癒した。
鍵の修理の件以降も、竹谷は何度か用具委員のもとを訪れた。
二度目に訪ねてきたときは、鍵の礼だった。珍しい種類の蝶を籠に入れてくれた。食満は蝶に興味はなかったが、不思議な濃紺の、光の具合で虹色に輝いて見えるその蝶は綺麗で気に入ったので、ありがたく受け取った。それから、竹谷が蝶に好かれる体質だと聞いて、そんなら虫籠を作っておいてやるから取りに来い、と三度目の逢瀬を約束した。食満が作った虫籠を竹谷はひどく喜んで、食満は気をよくした。そんなものならいつでも作ってやるからまた来い、と言ったら、竹谷は少し照れたように「いえ、籠もそうなんですけど、用事がなくても来ていいですか」と遠慮がちに訪ねた。その意味をとりがたく、食満が首を傾げると、竹谷は連れてきていた下級生たちを抱きしめて、「こいつらが用具倉庫を気にいっちゃったらしくて、ほら、ここって下級生じゃ見られないような忍具とか武器とかがあるでしょう、見ていて面白いらしくて、何かにつけて遊びに行きたいっていうんですよ」と申し訳なさそうに頭をかいた。食満は虚をつかれたような表情を浮かべて、「それはいいが・・・」とよくも考えずその場の勢いで頷いてしまった。下級生が危険な武器に興味を持ってしまったことを、注意するべきかもしれないと思ったのだが、「ああ、好かった。ありがとうございます」と笑って笑顔を見せた竹谷が、あんまり嬉しそうで、食満はまあいいかと考え込むのをやめた。
それから、竹谷は下級生の同伴で保護者役として用具倉庫に訪れるようになった。竹谷は来訪するたび、用具委員の下級生たちの面倒も見たので、彼の存在は食満にとっても有難かった。
「お前、長男か」
といつかに食満が訪ねると、竹谷は微笑んで、「違いますよ」と否定した。
「八男の末っ子です」
「よほど可愛がられたんだな」
「どうかな、喧嘩ばっかりだったけど。でも、兄弟は好きです」
「男ばっかりか」
「はい、見事なまでに女がいないんですよ。俺のときは本当に女を求めて、父さんも母さんも近くの神社にかよったって言ってました。でもやっぱり男だったんで、もう、諦めたみたいです」
「食満先輩は?」
「俺も末だ。姉がふたりいる」
「それでこの面倒見の好さだもんなあ」
竹谷が呟いて首をひねるのが、食満は面白かった。
「俺は、姉が厳しい人だったから、俺が年下の面倒を見るならもっと親切にしてやろうと思ったんだ。反面教師だな」
「俺は兄弟が多すぎて、ろくに面倒を見られなかったから、もう、一人っ子の感覚ですよ。兄がちやほやしてくれた思い出なんてほとんどないです」
食満は瞳を細めた。
「いや、お前は愛された育ったろうよ。お前を見ていれば判る」
竹谷は少し頬を赤くした。それから、どうだか、と呟いて頭を掻いたので、食満はなおも言った。
「かわいらしいことだ」
食満はだんだん竹谷に、後輩ではなく可愛らしい弟の感覚を持ち始めていたことを自覚した。
それはひぐらしの鳴く夏の終わりの夕べのことだった。あたりが橙に染まるなかで、竹谷と食満はいっしょに委員室の縁側に座っていた。食満が古い大きな盥を出してきたのでそのなかで水を張って、下級生を遊ばせた。それを冷やした麦茶を飲みながらふたりでのんびり見守っていた。
竹谷はその日、なんだか大人しかった。まばゆい笑顔も子どもを呼ぶ柔らかいよく通る声もいつもの通りだったが、縁側に座ってばかりであまり動こうとしなかった。下級生たちが、何度か竹谷の袖を引きに来た。
「いっしょに水鉄砲しましょう」「お水冷たくて気持ちいいですよ」
竹谷はそうだなあと煮えきらぬのんびりした返事を返して、立ち上がろうとしない。下級生たちは眉を下げて情けない表情をした。
「今日は遊ばないのか」
「はあ」
「体調でも悪いか」
食満の眉が心配そうに潜められたのを見て、竹谷が慌てて笑顔で手を振った。
「そんなんじゃないです。ここ最近暑いから、疲れでも出たかな」
「あとで伊作から暑気あたりの薬を貰ってやろう」
「ありがとうございます」
それから、食満がかわりに立ち上がって、一平と三治郎と平太を一度に抱え上げた。きゃあ、と子どもたちがはしゃいだ声を上げる。
「よし、今日は俺が相手になってやる」
「やったあ、食満先輩何して遊んでくださるんですかあ!?」
「盥にどぼんの刑だ」
「きゃー、やだあ!あはは」
子ども特有の高い声を上げてはしゃぎまわる。子どもの相手をしながら、食満は竹谷を振り返った。彼は遊びつかれて眠ってしまった三治郎を膝に乗せて、汗にぬれた柔らかい前髪を指で除けてやっていた。その、うつむいた首筋に、赤い擦れたような痣があるのを見て、食満は竹谷が今日に限ってあまり動かないでいた理由を知った。
五年になると、房術の実習で、男に抱かれる。竹谷はそれを終えてきたのだろう。かなかなかなと木立から鳴るひぐらしの声がやけに大きく聞こえた。誰もが経験しなければいけない、大切な授業の一環だ。文句などあろうはずもないのに、どうしてこんなに腹が立つような心持がするのだろう。食満は、途方にくれたように竹谷を見つめる。三治郎をあやすその優しい手のひらの動きから、眼が離せなかった。