鍵の修理の件以降も、竹谷は何度か用具委員のもとを訪れた。
二度目に訪ねてきたときは、鍵の礼だった。珍しい種類の蝶を籠に入れてくれた。食満は蝶に興味はなかったが、不思議な濃紺の、光の具合で虹色に輝いて見えるその蝶は綺麗で気に入ったので、ありがたく受け取った。それから、竹谷が蝶に好かれる体質だと聞いて、そんなら虫籠を作っておいてやるから取りに来い、と三度目の逢瀬を約束した。食満が作った虫籠を竹谷はひどく喜んで、食満は気をよくした。そんなものならいつでも作ってやるからまた来い、と言ったら、竹谷は少し照れたように「いえ、籠もそうなんですけど、用事がなくても来ていいですか」と遠慮がちに訪ねた。その意味をとりがたく、食満が首を傾げると、竹谷は連れてきていた下級生たちを抱きしめて、「こいつらが用具倉庫を気にいっちゃったらしくて、ほら、ここって下級生じゃ見られないような忍具とか武器とかがあるでしょう、見ていて面白いらしくて、何かにつけて遊びに行きたいっていうんですよ」と申し訳なさそうに頭をかいた。食満は虚をつかれたような表情を浮かべて、「それはいいが・・・」とよくも考えずその場の勢いで頷いてしまった。下級生が危険な武器に興味を持ってしまったことを、注意するべきかもしれないと思ったのだが、「ああ、好かった。ありがとうございます」と笑って笑顔を見せた竹谷が、あんまり嬉しそうで、食満はまあいいかと考え込むのをやめた。
それから、竹谷は下級生の同伴で保護者役として用具倉庫に訪れるようになった。竹谷は来訪するたび、用具委員の下級生たちの面倒も見たので、彼の存在は食満にとっても有難かった。
「お前、長男か」
といつかに食満が訪ねると、竹谷は微笑んで、「違いますよ」と否定した。
「八男の末っ子です」
「よほど可愛がられたんだな」
「どうかな、喧嘩ばっかりだったけど。でも、兄弟は好きです」
「男ばっかりか」
「はい、見事なまでに女がいないんですよ。俺のときは本当に女を求めて、父さんも母さんも近くの神社にかよったって言ってました。でもやっぱり男だったんで、もう、諦めたみたいです」
「食満先輩は?」
「俺も末だ。姉がふたりいる」
「それでこの面倒見の好さだもんなあ」
竹谷が呟いて首をひねるのが、食満は面白かった。
「俺は、姉が厳しい人だったから、俺が年下の面倒を見るならもっと親切にしてやろうと思ったんだ。反面教師だな」
「俺は兄弟が多すぎて、ろくに面倒を見られなかったから、もう、一人っ子の感覚ですよ。兄がちやほやしてくれた思い出なんてほとんどないです」
食満は瞳を細めた。
「いや、お前は愛された育ったろうよ。お前を見ていれば判る」
竹谷は少し頬を赤くした。それから、どうだか、と呟いて頭を掻いたので、食満はなおも言った。
「かわいらしいことだ」
食満はだんだん竹谷に、後輩ではなく可愛らしい弟の感覚を持ち始めていたことを自覚した。
それはひぐらしの鳴く夏の終わりの夕べのことだった。あたりが橙に染まるなかで、竹谷と食満はいっしょに委員室の縁側に座っていた。食満が古い大きな盥を出してきたのでそのなかで水を張って、下級生を遊ばせた。それを冷やした麦茶を飲みながらふたりでのんびり見守っていた。
竹谷はその日、なんだか大人しかった。まばゆい笑顔も子どもを呼ぶ柔らかいよく通る声もいつもの通りだったが、縁側に座ってばかりであまり動こうとしなかった。下級生たちが、何度か竹谷の袖を引きに来た。
「いっしょに水鉄砲しましょう」「お水冷たくて気持ちいいですよ」
竹谷はそうだなあと煮えきらぬのんびりした返事を返して、立ち上がろうとしない。下級生たちは眉を下げて情けない表情をした。
「今日は遊ばないのか」
「はあ」
「体調でも悪いか」
食満の眉が心配そうに潜められたのを見て、竹谷が慌てて笑顔で手を振った。
「そんなんじゃないです。ここ最近暑いから、疲れでも出たかな」
「あとで伊作から暑気あたりの薬を貰ってやろう」
「ありがとうございます」
それから、食満がかわりに立ち上がって、一平と三治郎と平太を一度に抱え上げた。きゃあ、と子どもたちがはしゃいだ声を上げる。
「よし、今日は俺が相手になってやる」
「やったあ、食満先輩何して遊んでくださるんですかあ!?」
「盥にどぼんの刑だ」
「きゃー、やだあ!あはは」
子ども特有の高い声を上げてはしゃぎまわる。子どもの相手をしながら、食満は竹谷を振り返った。彼は遊びつかれて眠ってしまった三治郎を膝に乗せて、汗にぬれた柔らかい前髪を指で除けてやっていた。その、うつむいた首筋に、赤い擦れたような痣があるのを見て、食満は竹谷が今日に限ってあまり動かないでいた理由を知った。
五年になると、房術の実習で、男に抱かれる。竹谷はそれを終えてきたのだろう。かなかなかなと木立から鳴るひぐらしの声がやけに大きく聞こえた。誰もが経験しなければいけない、大切な授業の一環だ。文句などあろうはずもないのに、どうしてこんなに腹が立つような心持がするのだろう。食満は、途方にくれたように竹谷を見つめる。三治郎をあやすその優しい手のひらの動きから、眼が離せなかった。
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