手の上なら尊敬のキス。
額の上なら友情のキス。
頬の上なら満足感のキス。
唇の上なら愛情のキス。
閉じた目の上なら憧憬のキス。
掌の上なら懇願のキス。
腕と首なら欲望のキス。
さてそのほかは、みな狂気の沙汰。
フランツ・グリルパルツァーを読んで不意に思いついた。久々知は床上手でキス魔だとよろしい。タカ丸は経験はあるけれどもいつまでも恥じらいを捨てられないと可愛らしい。
思っていたよりずっと、慣れていなかった。
膝を抱えて身体を折りたたむようにして己の熱を突き入れると、その度にタカ丸は指を噛んで声を殺した。あぐ、あぐ、と苦しそうに喘ぐさまがなんだか可愛そうなばっかりで、この人は思っていたよりもずっと情事に慣れていないのだと久々知は知る。久々知は房術の実習で何回か女を抱いているし、抱かれるほうも経験済みだ。タカ丸と抱き合うのは初めてでも、何処を如何すれば好いのかは、判っている。ぬく、ぬく、と内壁を擦るように奥へと打ちつける。その度に、我を忘れたように「あ、あ、もっ、だめ、兵助、ゆるしてっ」と哀願するのが可愛らしかった。普段は、まるで頼りないようでも大人びたところを見せているタカ丸が、自分の下でこんなふうに余裕をなくしているのは見ていて嬉しい。柔らかな耳たぶを甘噛みして、耳孔に「好きだ」と熱い息のまま囁いたら手のひらで顔を隠して「いやだ、」と言った。上気していた肌がますます桃色に染まって、照れているのだとわかる。
「そんなこといったらだめ、」
「どうして、」
「だって、あ、うう、ん、はず、かしい、からっ」
ずくずくと腰を突き入れていたらそのうちタカ丸が、いく、と言い始めたので、久々知は仕方がなしに腰を荒く使って自分のものを無理やり絶頂へ導いた。久々知自身は、もう少し長く耐えられる、と思ったのだが己だけ果ててなお腰を使われることの辛さはよくわかっている。同時に果てた。ぐったりと床に横たわるタカ丸の、隣に身を投げ出す。お互いの荒い息が落ち着くのを待った。
「身体、大丈夫ですか」
タカ丸は潤んだ瞳で兵助を見遣ると、きゅっと眉根を寄せて怒った表情を見せた。
「俺が初めてって、嘘でしょう」
「や、嘘じゃないですよ。房術で女は抱きましたが、男は初めてです。・・・まあ、抱かれたことならありますけど。でも、実習相手だし、淡々としたものでした。こんなふうに情を交わしてまぐわったのはあなたが初めてです」
「吃驚した。あんな、あんなふうに抱かれたのは、初めてだった。最後はあんな大声まで出して、恥ずかしいったら・・・!」
「可愛らしかったですよ」
「もういい」
タカ丸は、ぷい、と兵助に背中を向けてしまう。拗ねているのだ、可愛らしいなあ。兵助はなおも思う。背中からタカ丸をぎゅうと抱きしめた。唇には届かないから、腕や口に吸い付く。
「身体は大丈夫ですか、」
もう一度抱きたい、と誘われているのだ。タカ丸は顔を真っ赤にして、表情を見られぬよう深く俯きながら、
「大丈夫じゃないです」
と小さく返した。兵助の抱き方は激しかった。久しぶりということもあって、腰がじんじんする。体力はまだ少しなら残っているけれども、またあんなふうに強い快楽を与えられて、狂ってしまわない自信がなかった。
「ちぇ、」
と小さく舌打ちが聞こえたので、ムッ、と振り返ったら、すかさず唇を吸われた。
にせものかぞくごっこB面。
あややとハッチ。
六年生の入浴時間は遅い。入れるようになったら合図を出すから、それまでは長屋に居ろと指示を受けて、こうして長屋で待っているわけだけれども、宿題はあらかたやり終えて他にすることはないし、ぼんやりと待っていると眠くてたまらない。
「タカ丸、君、風呂入った?」
「んん?まだ入ってない」
文机に頬杖をついてこっくりこっくり舟をこいでいたら、背後で同室の綾部が尋ねた。ぼんやりと、真っ白な頭のままタカ丸は首を横に振る。綾部が首を傾げた。
「もう入る時間ないよ」
「ああ、うん、」
眠たい。話半分で相槌を打つ。綾部は黙ってタカ丸の丸まった背中を見詰めていたが、やがてポツリと呟いた。
「誰か待ってるの」
「うん。合図」
「合図、何の」
「うーん、そうねえ、風呂の…」
ふひゅう、ふひゅうと寝息で語尾が紛れる。綾部は睫の重みでこんななのか、ともかくいつも眠たそうに見える半開きの瞳で、じいと同室の年上を見詰め、「ふむ、」と頷いた。
「寝てしまえ」
「はう?」
ぽつりと落とされた綾部の独白に、限界が近いタカ丸の表情が振り向く。綾部は相変わらずの無表情で傍に用意した打掛をむんずと掴むと、ふわりとタカ丸に被せた。
「うわ、だめだめ。今これやると俺寝ちゃうから~・・・」
タカ丸は打掛の呪縛から逃れようとよわよわしくもがいていたが、やがて完全に意識は途切れて打掛を身体に巻きつけると床に横たわって本格的に眠りに入ってしまった。
合図代わりの三郎が滝夜叉丸に化けて「は~い、夜中でも元気な滝夜叉丸だ☆」とか適当にハイテンションを装ってタカ丸の部屋を覗いたら、姿勢正しく打掛を羽織って眠る綾部と、その隣で転がったままのタカ丸を見つけた。標的が寝ているのは想定の範囲内だ。彼の恋人である同級生が、「多分あいつはもう寝てる」と諦めたように呟いていた。
(さて、どーしたもんかね)
眠っているのなら連れてこなくてもいい、寝かせておいてやってくれ。兵助はそういったのだが。三郎としてはそういうわけにも行かないのだ、起こしてでも連れてこなければ、翌日タカ丸に恨まれる。なんせ食堂で一緒になったときに兵助のいないときに、「俺が寝てたら殴ってでも起こしてくださいね、」と念を押されたのだから。雷蔵が気を利かせて「大丈夫だよ、もし寝ちゃっても朝風呂には入れるようにしてあげるから」といっても、タカ丸は「いえいえ、気持ちはありがたいですけど、朝じゃあ意味がないですから。兵助寝ちゃってるでしょう」と微笑んだので、なるほどそれならば絶対起こしてやらねばなるまいと、そう思ったのだ。
(レッツ拉致☆監禁)
気配を消してこっそりと十五歳の身体を抱き上げる。眠っていたはずの綾部がむくりと上体を起こした。
「滝夜叉丸、夜中にどうした。うるさいぞ、あほ」
「綾部は寝ててよし」
間近から目潰しを投げつける。こんな児戯めいた企みに何もそこまでと雷蔵ならば起こるだろう。しかし、児戯であろうとなんだろうと常に本気でかかるのが三郎のポリシーだ。本気でなければ何ごとも楽しめない。綾部もよくやるもので、羽織っていた打掛を一度叩いて目潰しをかわすと、内側に忍び持っていたらしい、縄標で足を捉えようと床すれすれに縄を滑らせる。三郎がひらりと飛んでそれを避けた。
「誘拐犯め」
「よい子は寝る時間だぜ、って」
至近距離で忍たまの友の乱定剣。とっさに払い落とした隙に、偽者滝夜叉丸はタカ丸を連れて夜の闇に消えた。騒ぎを聞きつけて、本物が現われる。三木ヱ門も一緒だ。一応、学年一の秀才というのは嘘ではないのだ。
「何の騒ぎだ」
「滝夜叉丸、腹立つから一発殴らせろ」
「わわ、なんだいきなり!私が何をしたというのだ!」
「斉藤さんがいないな」
三木ヱ門の呟きに、綾部はぽかりと滝夜叉丸を殴りつけると、「もう寝よ」と布団の中にもそもそと入り込んでしまう。駆けつけた二人は同級生のマイペースぶりに飲まれて途方に暮れた。
「なんだ?」
「さあ」
「五年生なんぞ大嫌いだ」
綾部の吐き捨てるような呟きは、誰の耳にも止まることなく空気に溶けて消えた。
誰がなんと言おうと忍術学園で一番のハーレムは火薬委員会なんだぜ!!(やけくそ的な意味で)
とうふばななといーちゃん。
委員会室に設けられた文机にのっぺりと伏せって、タカ丸は先ほどからぐったりしている。委員会中は身を起こして何とか話は聞いているふうだったが、ふうと溜息をついては視線を下にさげっ放しで、顧問の土井に心配されたほどだった。いつもならタカ丸の不躾を真っ先に窘めそうな久々知がその日に限って何も言わないのが、伊助には不思議だった。委員会が終わっていよいよ上体を机につけて眠りの姿勢に入ってしまったタカ丸に、伊助が声をかける。
「…タカ丸さん、大丈夫ですか?」
「ん~…」
声がしんどそうだ。伊助は眉を潜めて、風邪ですか、と聞く。保健室を勧めてみようかと口を開いたところで、タカ丸が気だるげに身を起こして、「だいじょーぶだよ」と微笑う。タカ丸の声は柔らかくて穏やかで、いつだってとても心地好く耳朶を打つ。
「昨日あんまり寝てなくて」
「寝不足ですか」
「まあ、そんなとこ」
ふああ、と大きく欠伸する。ふわりと揺れた髪からは、花のような甘い匂いがする。くのいちが知ったら欲しがりそうだ、どんな整髪剤を使っているんだろう。例えばタカ丸よりずっと女性的な容姿の立花仙蔵や綾部喜八郎からこんなような匂いが漂うんだって、やっぱり想像はつかないし、違和感を感じるような気がする。タカ丸は決して女性的ではないのに、こういう、女の好むようなわかりやすい華やかさがとても似合う。
「タカ丸さん、今日はもうあがって早めに寝たらどうです」
「うん。あー・・・風呂は入んなきゃ。伊助くん、一緒にはいろ」
「でも先輩、学年・・・」
忍たま長屋の風呂に決して学年別の時間指定など設けられてはいない。しかし、やはり下級生が上級に混じって風呂を使うのは気を使うもので、三年生と二年生が一緒にはいるのも激戦になるし、なにとはなしにいつのまにやら暗黙の了解で棲み分けがなされていた。
「でもまあ、タカ丸さんが僕等と一緒にはいるぶんには、変な遠慮もないからいいのか」
何せ専門教科授業のほとんどを一年生の教室で混ざって勉強しているタカ丸は、一年生メンバーにも親しんでいる。伊助の呟きに、タカ丸は満足げに頷いたが、すぐに後ろから久々知にぴしゃりと却下された。
「駄目だ」
なぜタカ丸のプライベートな行動に久々知が関与するのだろう。タカ丸といっしょにきょとんとした瞳で、伊助は常識派の五年生を見上げる。タカ丸はぷくうと頬を膨らませた。このひとは、髪結の腕は一流だし精神的にもとても成熟した考え方をもっている人なのに、言動がいちいち幼い。一年にしては落ち着きのあるほうだと称される伊助は、タカ丸のことを、そう見ている。
「だって、滝とか三木とかあややと一緒に入れないじゃんか」
「なんだ、あややって」
「綾部のこと。そう呼べって、本人が」
「相変わらずふざけてやがるな、あの作法委員」
「えー、でも、あだ名で呼び合うってなんかいいじゃん。は組もみんなあだ名呼びだよね」
ね、いーちゃん。タカ丸に微笑まれて、伊助もつられて笑う。苦笑に近い表情になってしまったのは、先日、タカ丸も「なんで俺のことはタカ丸さんのままなの」とわがままを言ってみんなを困らせた記憶があるからだ。
「火薬委員でもあだ名作ろうよ」
「馬鹿!委員会活動は縦社会!礼儀第一!あだ名は横のつながりで押さえておけ」
なるほど一理ある言葉だが、年齢や学年といった面ではまるで掟破りでアウトサイダーな存在のタカ丸には実感としてその言葉の意味を理解はしにくいだろう。伊助の考えたとおり、タカ丸は面白くなさそうな表情で、「でもさあ、」と言葉を続けた。
「ハッチ先輩は俺のことにゃんこさんってあだ名で呼んでくれるんだけど」
「にゃんこさん、ですか」
伊助が噴きだす。タカ丸は笑顔で、己の唇を指差す。「俺って口元のあたりが猫っぽいんだって」
「ははあ」
「いーちゃんもそうやって呼んでいいよ」
「えー?」
くすくす笑いあうふたりの後輩の横で、久々知の表情だけが渋い。苦虫を五千匹ほど噛み潰したかのような形相をして空を睨んでいる。
「三郎殺す」
「殺さないで、俺ハッチ先輩好きだから」
「叩き潰す」
どうにも、先ほどから久々知が穏やかでないようだ。伊助は瞳をパチパチを瞬かせて、「久々知先輩、今日は機嫌が悪いですね。どうかなさったんですか」尋ねる。気遣い屋の後輩に指摘されて、久々知の頬がにわかに赤くなった。
「べつにそういうわけじゃないから、二郭は気にしなくていい」
タカ丸が苦笑した。
「そうそう、不機嫌なわけじゃないよ。むしろご機嫌だよ」
「なーにが!」
タカ丸の言葉の何がいけなかったのか、久々知は眉を顰めてタカ丸の頭をぺしりと叩く。
「だってそうじゃん、昨日あんなに好きにして。おかげで俺今日眠たいし。みんなと風呂に入れないし」
「う…でもお前だってわりとはまってた」
「そうだけど、俺途中でもう勘弁してって泣き入れたじゃん。無視して続けたのはそっち」
「だから悪かったって!昼のいちご大福やっただろうが」
「ぶー。俺、昼にでた冷奴兵助にあげたからそれで打ち消しでーす」
「なんだよ、あれは親切心でくれたものだろ!?」
「にゃんのことやら」
ぎゃいぎゃいといい争いをする上級生の隣で、何ごとかを考え込んでいた伊助は、「あ、そーか!」と掌を打った。ふたりが喧嘩をやめて伊助を見やる。伊助は首を傾げて、真面目に提案する。
「久々知先輩はもしかして、タカ丸先輩と風呂に入りたいんですね?」
「なんでそこでそうなる!?」
「え、でも、そうとしか取れないんですけど…」
「いやいや、そんなことない」
「違うんですか?」
「ほんとに察しがいいなあ、この子」
タカ丸は見たことのない笑顔で伊助の頭をなでる。兵助はこほんと照れ隠しの咳払いをして、「いくら一年にはわからないといったって、あんなもの見せるわけにいかないだろ。六年が入り終わった後にこっそり入ろう。三郎に工作は頼んだから、先生方の入浴までは、少し時間が取れるはずだ」
「はいはい、じゃあそうしましょう」
タカ丸が伊助を膝に載せて後ろから抱き締めながら、嬉しそうに頷く。あ、たしかにちょっと、猫に似てるかも。タカ丸の纏うかすかな甘い匂いのなかで、伊助は思う。ごろごろと、今にも咽喉が鳴りそうだ。
「伊助も一緒に入る?」
タカ丸が尋ねた。伊助はなぜだか許可を求めなければいけないような気がして久々知を見上げた。複雑そうな表情に、また気を使ってしまう。
「やめときます。ご飯前に入っちゃいたいので」
「うん、そっか」
タカ丸の細くて長い節くれだった指先がそろそろと伊助の髪を梳く。「悪いな、」と、なぜだか久々知が謝って、伊助は苦笑した。父ちゃんと母ちゃんに似ている。どっちがどっちとかは、ないけれど。子どもは知らなくていい秘密を抱えたその様子が、傍で見ていてくすぐったくて、羨ましくて、知らない他人のようで。
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大人にしかわからない話と察しのよい子ども