巷で流行る妖怪パロをスガワラもしてみんとてすなり。
食満竹だったり、鉢雷だったり、・・・。
---------- キリトリ -----------
人など到底足を踏み入れらそうにない奥深い山の中に、一人の青年が立っている。まだ夜が明けきらぬ時分で、薄闇の中にほう、ほう、と梟の鳴き声がしている。青年はごわごわと剛そうな髪を無造作で頭の高い位置でひとくくりにし、綿の貧しい着物を身に着けていた。働き盛りの若い男で、卑しい身分のようであるのに、瞳は凛と涼やかで、若衆らしい気品のある爽やかさにあふれていた。
「行くのか、」
と丈の高い草の向こうで声がして、青年は顔を上げた。
「ああ、行く」
「ふん、ご苦労なことだな」
かさこそと青草が揺れて、一匹の狐が青年のほうへ近寄ってくる。それは黄金の毛並みをして、ずいぶんと神々しい。尾が九つに分かれていた。京ではこうした狐を「九尾の狐」と呼んでいるらしい。
少し前、ひとでいうと十数年前になるか、玉藻御前と呼ばれた女が、帝を誑かし、その正体が狐だというんで切って捨てられた。女はその美しい肢体を袈裟懸けに切られるや否や、変化を解いて狐に戻るとばったりと血溜まりの中に伏した。その尾が九つあったので、人々は妖怪だったのか、と息を呑んだという。そのとき玉藻御前の腹から出てきた石は、殺生石と呼ばれて今もどこぞでひとを呪い殺しているという。
玉藻御前は、この狐の母親だった女だ。
「おい、人間に関わるとろくなことがないぜ」
と狐は囁く。「鵺、お前、そのうち切って捨てられちまうよ。人間は冷血で自分勝手な生き物だ、おまけに愚かで本質を見ることがない、お前が世話を焼いているその男・・・なんと言ったっけか」
「食満留三郎だ」
「ふん、その男、お前が鵺だと知った途端手のひらを返したようにお前を殺そうとするだろうよ」
「留三郎はものの道理のわかる偉い男だよ」
にっこりと青年が微笑むと、狐は呆れたように息を吐いて首を横に振るった。
「じゃあ勝手にするがいいさ」
「ああ、」
「でもお前、ひとつだけ覚えておいで、本当に人間なんかに情をかけすぎちゃいけないよ。絶対にろくなことにはならぬからね」
食満留三郎は弓の名人である。蔵人として京に住んで天皇のために働いている。
最近、八左ヱ門という若い男を下男として召抱えた。小汚い形をした田舎者ではあったが、凛々しい顔立ちをしてどうにも気品にあふれた容姿を持っている、食満はこれはもしかしたら並ならぬ高貴な出かも知れぬと考えて男に興味を持って、雇った。男はよく働いたから、食満はすっかり男のことが気に入っていた。年の頃は、留三郎とそう変わらぬふうだったから、留三郎は蔵人のなかでも一番の若輩で、またそうでなくとも母親も死に父もおらず話し相手のいないことが寂しかったので、そのうち男を対等の友として見るようになっていた。
男には学がなかったが、面白い話をたくさん持っていた。例えば、なぜ空は青いのか、それは実はこの世は大きな海の中に沈んでいて、われわれが海と思っているのは実は水面なのだ、とか、その向こうには麒麟やら朱雀やら龍やらといった神がいるのだとかそういう話だ。本当か、といえば、さあ、と無邪気に首を傾げるので不思議な男だとそのたびに呆れたような気持ちになるのだが、ふたりでそうした話を時を忘れてしているのが楽しいのだった。
その日、男が食満の屋敷に向かうと、庭を見てくつろいでいたらしい主人は自ら出てきて、男を歓迎した。
「よう、八左ヱ門、よく来た。待っていた。さあ、うまい酒と、つまみが用意してあるぞ。お前のために昨日のうちに求めてきたのだ、さあ、あがれ、あがれ」
「留三郎様」
「様などと、水臭い、留三郎でいいといっているだろう。ほれ、呼んでみろ」
「そんな、恐れ多い」
留三郎も男もにこにこしている。
「恐れ多くなどあるものか、様付けなどと、お前にされても寂しいばかりだ。さあ、留三郎と呼んでみてくれ、さあ」
「留三郎」
「ああ、好い声だ。胸が晴れるようだ、ほら、今日は庭の竜胆が綺麗だ、ともに眺めて酒を飲もう、ほら、」
留三郎はぐい、と八左ヱ門の腕を掴むとそのままずんずんと屋敷の奥へと引っ張ってゆく。
「留三郎、腕がもげる」
と八左ヱ門が抗議すると、留三郎は声を上げて笑った。それにつられて、八左ヱ門も笑う。
留三郎の母親は数年前に死んだ。鵺に霊魂を吸い取られて死んだ。嵐の轟々とうるさい晩で、遠くヒエーヒエーと長い鳴き声がした。鵺の鳴き声は、人間の霊魂を吸い取っていくという。留三郎は老いて弱った母親の手をさすって、静かに鵺の鳴き声に耳を済ませていた。鵺よ、どうしてそんなにもお前は鳴いているのだ。
翌朝、母親の腕は留三郎の両手のひらの中で、冷たくなっていた。
八左ヱ門と出逢ったのもその頃だ。瑞々しい花梨を手に持って、母親の野辺送りから帰る留三郎にそれを手渡した。よい匂いがぷんとあたり一面に広がって、留三郎がよい匂いだ、と呟くとほう、と息を吐いて笑ってどこぞへいってしまった。不思議な出会いだった。
留三郎の屋敷の庭には、それから、花梨が植わるようになった。ぷんとよい匂いが二人を包んでいる。ふたりは欄干に腕をもたれさせ、よい気持ちで向かい合って酒を飲んでいる。
「留三郎、不自由はないか」
と八左ヱ門は尋ねる。
「なにも」
留三郎は首を横に振る。仕事も上手くいっている、よき友も得た、俺は満たされている。
「女は要らんのか」
「女か、ふむ、」
「要るなら俺が用意しよう」
八左ヱ門の言葉に留三郎は苦笑する。
「ああ、本当に不思議な男だよお前は。俺がここで頷くと、お前はおそらく明日本当に女を連れてくるのだろう。それも器量のいいとびきりのいい女をだ」
「要るか」
「必要ないよ。女に興味がない・・・というと可笑しな言い方だが、今は欲しいとは思わない」
「心の慰めになる」
「心の慰めなら、八左ヱ門、お前が要るではないか」
留三郎は八左ヱ門の杯に酒を注いでやると、そのまま姿勢を正して真っ直ぐ目の前の青年を見つめた。八左ヱ門は眼を丸くして酒杯を置いた。
「なんだ、」
「八左ヱ門、お前、この屋敷でともに暮らさぬか」
「へ、」
「不自由はさせん。よい着物を着せて、上手いものもたらふく食わせてやる。お前のために、俺は蔵人の頭になってやろう。お前が欲しいものは全部用意してやる、今までお前が俺にしてくれたようにだ。どうだ、悪くあるまい」
八左ヱ門はぽかんとして、それから低く唸ってから、駄目だ、といった。
「それはできない」
「なぜ」
「なぜでもだ。お前が望まぬから、」
「どういうことだ」
留三郎は首を捻る。八左ヱ門の手のひらに触れようと腕を伸ばすと、はじき返された。
「帰る」
「まて、八左ヱ門、」
八左ヱ門は慌てて屋敷から飛び出していってしまった。留三郎はぽかんと、彼の行ってしまった方向を見つめている。庭中に花梨の甘い匂いが満ちて、留三郎を包んでいた。
28.仙蔵の我侭、あるいは綾部の誓い
仙蔵が、綾部と仕事を代わりたいと言いだしたのは、文次郎が草鞋を履いている時だった。
背後に仙蔵が立つ気配がして、「何だ」と振り向きもせず声をかけたら、そんな我侭を吐いた。文次郎は言下に「駄目だ」と答えた。
「駄目か」
「決まっている。急な作戦変更は統率を乱すもとだ。だいたい、仙蔵、お前の役目は何だ」
「斉藤さんの護衛」
「それがあの四年に務まるか」
「喜八郎は筋がいい」
「仙蔵、これは実習ではない」
文次郎は草鞋を履き終えると立ち上がった。もともと年のわりにいかにも男くさい顔立ちをしていた、それが、やれ誰よりも忍者らしい忍者になるのだとかなんとか仙蔵から言わせれば戯言を吐いていつも切羽詰ったような表情をしているから、そのうちに年齢以上の貫禄を持つようになってしまった。仙蔵は級友を、目を細めて見遣る。
「知っている。だからこうして頼んでいるのではないか。私がお前に頼むなど、実に何年ぶりのことだろうな」
「馬鹿な。背後にたって腕を組んでふんぞり返って、なにが”頼んでいる”だ」
文次郎は鼻を鳴らす。彼は頑固な男だ。だが、それ以上に眼前に立つ立花仙蔵も同じくらい頑固な男だ。
「綾部喜八郎が貴様にそう頼んだか」
「いいや、あの子はいい子でね、そういうことは決して言わないよ。部屋で苦無の手入れをしている」
「綾部のためか、それとも斉藤のためか」
仙蔵はふっ、と小さく声を漏らして笑った。「どちらでもないさ、私のためだ。最近疲労がたまっていてな、楽な仕事がしたくなった。だから大変なほうを綾部にまわすのさ」
「さぼるな、馬鹿」
「私らしいだろう?」
仙蔵が肩をすくめると、ちょうど綾部がその脇を通り過ぎた。
「出ます」
とぼそりと呟いていってしまおうとするのを、仙蔵が止めた。
「ああ、待て。役目交代だ」
「は?」
綾部が訝しげに眉を潜め、仙蔵を見上げた。作戦が始まってから役目交代など、滅多にあってはならぬことだ。それを言い出したのが自他に厳しい仙蔵であったから、綾部は奇妙な心持がしたのだった。
「誰とです」
「私だ。綾部、お前は二階へ上がれ」
彼らは市井のひとつにある茶屋を仮のアジトに決めていた。仙蔵は玄関からすぐに待ち構えている階段の下に立って、顎で二階を示した。綾部が釣られて上を見上げる。
「先輩のお役目は、善法寺先輩のお手伝いでしたか」
「そうだ。いずれはここを発つことになるがもう少し後になる。詳しい説明は伊作から聞けばいい。難しいし重要な役目だ、覚悟しろ」
「そのような仕事を何故私に」
綾部は不思議に思って納得せぬふうである。仙蔵が困ったように笑うと、横で文次郎が生真面目に口を挟んだ。
「仙蔵は俺と組みたくないのだと」
「ははあ、」
綾部はわかったようなわからぬようなぼんやりした表情で頷く。だが断るような理由も無いので、言われるままに二階へ上がった。仙蔵がもう一度背後で「kれぐれも抜かるなよ」と念を押すのが聞こえた。
綾部の背中が見えなくなると、仙蔵が、文次郎を振り返った。
「さて、では、私も行こうか」
「お前は優しすぎる。あまり後輩に情をかけないことだな。普段似合わん毒舌など吐いて、厳しい上級生を気取っているから、こういうときに可笑しく見える」
「言うな、文次郎。己の弱点だ、自分でよくわかっている」
仙蔵は少し眉を下げて嫣然と微笑む。普段、きつめの美貌をしているだけに、そのような笑うと、ひどく頼りない柔らかい感じが出て、文次郎は見慣れぬものを見たとばかり戸惑ったように視線をそらせた。
綾部が二階に上がり伊作の名を呼ぶと、彼は部屋から出てきて、「やあ、手伝ってくれるんだってね」と微笑んだ。どうやら仙蔵から話は聞かされているらしい。
「私は何をお手伝いしたらいいんですか」
「うん、今ようやく薬を飲んで少し落ち着いているところなんだ。そのうち高熱が出てくると思うから、そうしたら看病してやって欲しい。・・・まだ少し働いてもらわなくてはいけないんだ。熱のなか動かせてしまって、本当にかわいそうだとは思うけれどもね。そのときは護衛をしてやってくれないか」
「誰のことですって?」
綾部は眉を潜めた。話が見えない。病人の世話をしろ、というが、綾部には誰のことか検討もつかない。尋ねると、伊作は黙って微笑んで、自分が出てきた部屋に綾部を通した。綾部は部屋を覗き込んで、息が止まるかと思うほど驚いた。
火鉢のそばで布団に寝かされているのは、タカ丸だった。
「なっ・・・」
驚愕に言葉を発せないでいる綾部に、伊作は耳打ちする。
「そういうことだ。本当は、間一髪、一命は取り留めたんだよ。刺されたのも河に落ちたのも本当で、ひどく弱っているがね。精神的にも参ってるようだ、看病を頼むよ」
綾部の瞳がうっすらと潤っている。伊作は少し笑うと、「買い物に言ってくる」と出て行ってしまった。
綾部はもつれ込むように部屋に入ると、タカ丸の枕元に膝をついた。
「タカ丸さん、」
震える声で呼びかけると、タカ丸は瞼を重たげに持ち上げて綾部を見上げた。薬が効いてきて、ひどく意識がうっすらしている。身体が泥のように重たかった。
「綾部」
「ご無事だったんですね」
「うん、迷惑をかけてしまって」
綾部の手のひらがタカ丸のそれを包み込むように握る。タカ丸はうつらうつらと浮かされたような意識のなか、綾部が泣いているのかと思った。そのくらい、彼の様子が途方にくれた迷子の子どものように頼りなげに見えたのだった。それで、重たい手を持ちあげて、綾部の頬に触れた。
「大丈夫、何か辛いことがあったんだね」
「・・・ええ、ええ、とても」
綾部は深く俯いてしまって、タカ丸からは顔が見えない。ただ、声がひどく震えている、と思った。綾部が、黙ってタカ丸の手をぎゅうと痛いくらいに強く握った。そのうえに、熱い滴がぽたりぽたりと落ちてふたりぶんの手のひらを濡らした。泣いているのだ、とタカ丸は気がついた。
「綾部、大丈夫だよ、俺がいるよ」
タカ丸はかつて自分が貰って安心した言葉を、そのまま綾部に吐いた。その言葉をくれた人物は、優作であり、兵助であり、綾部だった。ああ、優しさやぬくもりというものは、めぐるのだなあ。タカ丸はそれがおかしくて少し微笑んだ。綾部は震える声で、きっとですね、と呟いた。
「きっとですね。もうどこへも行きませんね。ずっと私のそばにいてくれますね」
「うん、どこへも行かないよ」
「約束ですよ。もし破って勝手にどこかへいってしまったら、私は必ず貴方を追いかけますからね。追いかけてどこまでも行きますからね」
タカ丸は頷く。頷いて、それからひどく疲れたと思い、瞼を開けていられなくなって、息を吐いてそれを閉じた。右手がやけに熱い。綾部が握っていてくれるからだ。タカ丸はそのことをとても安堵した。誰かと熱を分け与える行為は、どうしてこんなにも安心できるものだろう。疲れた心をそっと休ませてくれるようだった。
「綾部、俺ね、死んでしまってもいいと思ったんだ。あんまり弱くて、子どもの頃から守ってもらうばっかりで、今回こんなふうになってしまって、いろんな人に辛い思いをいっぱいさせて、死んで決着をつけることが俺にできる最良で精一杯の策だと思った。それが、こんなふうに助かってしまってね、みっともない、どうしようもない、自分の無力さを恨んだよ。でも、ねえ、伊作先輩に怒られてしまった。弱くてもいいから生きなければいけないというんだ」
「タカ丸さん、貴方は弱くない」
綾部の脳裏には、いつかの大川の言葉が浮かんでいる。力が欲しいか。なんのために。何のための力が欲しいか、喜八郎。
「貴方はとても強い心を持っている。それだけで、決着をつけるには十分です。タカ丸さん、私の力を貴方にあげます。私は貴方のために力を使おう、貴方を守るために強くなろう。貴方が弱いから守るのではない、貴方の心が私を生かしてくれるから、私は貴方を守りたい」
「綾部、・・・冷たい水の中で、遠のく意識で、いつかに君がくれた言葉を思い出してた。”私がいます”って、・・・死の間際でも不思議と怖く無かったよ。ありがとう」
「私には貴方が必要です。そして、貴方にも私を必要として欲しい」
私の全部を貴方にあげよう。綾部は祈るような気持ちで思う。タカ丸が自分のものにならなくても、そんなことはもう、どうでもよかった。関係のないことだ。タカ丸の愛情がどこへ向けられようとも、綾部は総てを捧げてこの愛しい、救いのような存在を守るだけだった。
タカ丸が瞳を開いた。両の瞳に綾部が映っていることを、綾部は嬉しいと思う。じっと見つめ返したら、タカ丸がうっとりと微笑んだ。
「綾部、俺は強くなりたいよ。だからそれまで、力を貸してくれるかな」
綾部は微笑んだ。この男が物心ついてから、初めて見せた、とても美しい笑みだった。綾部はタカ丸の手のひらを取りあげて、そっと唇を寄せた。
「誓いましょう、きっと私は貴方を守る。私を使ってくださいタカ丸さん」